「孤独を癒やしてくれるのは他人だけ」

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 いつものようにインターネットを徘徊していると、「孤独を癒やしてくれるのは他人だけ」という、とても素敵な言葉に出会った。

 一見すると人とのふれあいを大切にするハートウォーミングな言葉に思えるが、ここでいう「他人」とは「自分以外の人」という意味ではない。「自分以外の人」のうち、家族・友人・恋人などの特に親しい人、いわゆる「身内」を除いた、本当に見ず知らずの人を「他人」といっているのである。

 そうすると、この「孤独を癒してくれるのは他人だけ」という言葉は一挙に不可解なものとなる。どうして、見ず知らずの「真っ赤な」他人に、孤独を癒してもらうことができるのか、そう思う人が大半だろう。

 しかし、僕はなぜかこの言葉に強く共感を覚えた。

 ちなみに、この言葉は Yahoo!知恵袋で見かけた、「彼女がいるのに寂しいと感じるのはなぜなのか」という趣旨の質問に対する回答のなかで使われていた。いわく、「孤独を癒してくれるのは他人だけ」で、「あなたにとって彼女はもう『他人』ではなく『身内』になったということではないか」ということであった。

 僕は、この論理的には矛盾しているようにも思える回答に、とても納得した。「身内」と呼べるような他者がいるのにもかかわらず、なぜ「孤独」を感じるのか、という疑問を抱く人もいるだろう。だが、僕は自分の経験的にこの回答がいわんとしていることを理解することができた。

 僕も、両親は健在だし、少ないが友人もいて、恋人もいる。にもかかわらず、やり場のない孤独感を抱えてふさぎこむときがある。そんなとき、その孤独を打ち破ってくれたのは意外と、顔も名前も知らない「他人」だったりした。

 たとえば、自室に一人でこもっている寂しさに耐えかねて外出した先で、ふらっと入った店の店主や従業員と思いがけなく意気投合して話に花が咲いたあと、ふと気がつくと、さっきまでとは打って変わって、気持ちがすかっと晴れ渡っていたというようなことが何度かある。お互いに、名前も告げずに別れて、きっと二度と会うこともないだろうにもかかわらず。

 こういう不思議な体験があったからこそ、「孤独を癒してくれるのは他人だけ」という言葉にも妙にすんなりと得心がいったのだろう。もちろん、「他人だけ」というのは誇張した言い方になるが、「他人」にしか癒すことのできない種類の孤独があるというのは確かだと思う。

 むしろ、無駄にだらだらと時間だけ積み重ねてけっきょく実りの少なかった人間関係よりも、長い人生からすればすれ違いざまに会釈を交わしに過ぎないような、ほんのひとときの交流のほうが、やけに印象に残って忘れられなかったりする。

 思うに、そのような交流が私たちにかすかな希望を感じさせるのは、それが可能性をほのめかしているからではないだろうか。つまり、この世界にはまだまだ私の知らない世界や人が存在して、勇気を出して手を伸ばしさえすれば、いつでもそうした新たな世界と触れ合うことができるのだということを、思い出させてくれるのだ。

 だから僕は、どんなに一瞬の付き合いであっても、決して軽んじたりはしない。