理解されることを諦めて音楽を聞きながら孤独に沈む

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 家族も、友人も、恋人もいるのに、孤独でたまらない。

 こんなことを言うと村上春樹の小説の主人公にでもなろうとしているのかと思われそうだ。村上アンチの人は、彼の小説の主人公は女には困っていないくせにいっちょ前に孤独ぶるのが鼻につくと批判したりする。

 しかし、そういう人は本当にそれがおかしなことだと思っているのだろうか。友人や恋人さえいれば人は孤独ではなくなると信じているのだろうか。あるいは、実際に自分は友人や恋人がいるから決して孤独ではないと断言できるのだろうか。だとすれば非常にうらやましいなと思う。

 僕の場合はむしろ、孤独から逃れようとして人と交わろうとすると、大抵の場合は、かえって自分が孤独であることを再認識し、かつそこから抜け出すことが絶望的であることを思い知って、落胆してしまう。

 どうしても他人に理解してもらいたい感情というのは、見方を変えれば、どうあれ他人には理解してもらえない感情だ。なぜなら、すんなり他人に理解してもらえるような感情でいちいち思い悩んだりはしないからだ。やすやすとは理解してもらえないからこそ、それが静かに自分の心の底に沈殿していって、次第に無視できなくなってくるのだ。

 そして、この人ならひょっとしたら理解してもらえるかもしれないと勇気を出して打ち明けて、なんだか煮え切らないような困惑したような反応が帰ってきたときほど、深い孤独感に襲われるときはない。そんな経験を重ねるうちに、やがて自分の中の複雑な感情を他人に吐露して理解してもらおうしなくなる。

 とはいえ、それで問題が解決するわけではもちろんなく、自分ひとりで抱えて生きていくには苦しい感情がいっさい処理されることなくずんずんと積もっていくことになる。最近ことさらその堆積を意識するようになってきた。

 かつてあれほど熱心に語り合った友人と久しぶりに会って言葉を交わしても、なんだか薄っぺらい上辺の話だけでから騒ぎして、とぼとぼと家路をたどる背中がとても寒い。別々の道を歩んできた時間が長くなればなるほど、お互いのことを理解しにくくなっていくのだ。

 そろそろ僕は、他人に理解を求めるのを諦めなければならない時期に入ってきたのだろうか。それとも、もっと他人に理解してもらえるように、自己を客観的に分析し、それを明快な言葉で表現する技術を磨かなければならないということだろうか。

 きっと後者なのだろうし、それをがむしゃらにやっていけば、ひょっとするとなにかを成し遂げることにもつながっていくのかもしれない。しかし、いまの僕にはそれができそうもない。ただいろんなことを諦めて、唯一僕の心に染み渡り癒やしてくれる音楽を聞きながら、孤独のより深い底の方へとゆっくり沈み落ちていくばかりだ。