僕がフィルムカメラで写真を撮る理由

f:id:beethoven32111:20180801225403j:plain
 この春くらいから、フィルムカメラで写真を撮っている。上の画像は僕が撮った写真である。使っているカメラは NikonNikomat FTN という1967年発売のとても古いカメラと、かの有名な Leica の M6 である。どちらも僕の私物ではなくて、別々の人から借りているものである。Nikomat は僕にカメラを勧めて写真の基礎を教えてくれた人が、Leica M6 はとある知り合いからお借りしている。ちなみに上の写真は Leica M6 で撮影したものである。ピントが合っている植物がくっきりと浮き上がって見えるのが印象的である。これは使用している Summilux 35mm f1.4 Aspherical というレンズの特徴らしい。実はカメラ本体よりもレンズのほうが中古価格が高い。もちろんレンズも同じ人から借りている。

 さて、カメラを始めた理由は、さっき少し触れたとおり、ある人から勧められたからだ。その人は大学の英語の先生で、外国人である。自身とてもカメラが好きな人で、デジタルもやるが根強いフィルムの愛好者でもある。その先生が僕にフィルムカメラを勧めた理由は、そのほうが写真の基礎を学びやすいからということだった。あとからデジタルに移行するにしても、最初はフィルムのほうが良いのだという。当時はよくわからなかったが、いまになってみればとてもよく理解できる。実際、カメラを始めてまだ半年にも満たないが、デジタル一眼レフカメラで1年以上写真を撮っている友達よりもカメラや写真の基礎について詳しくなった。

 というのも、デジタル一眼レフで撮影している彼は、すべての設定をカメラに任せている。つまりAF(オートフォーカス)、AE(オート露出)を使っているということだ。反面、僕が使っているカメラは両方ともそんな便利な機能を持ち合わせていないので、必然的にそうした設定をすべて自分で行う必要がある。そして、正しい設定で撮影を行うためには、当然それらの設定についてある程度は理解していなくてはならない。だから先生に教わりながら実践してみて、いまではとりあえずオーケーな写真が撮れるレベルにまではなった。

f:id:beethoven32111:20180801231050j:plain

 それで、このあいだそのデジタル一眼を使っている友達と一緒に写真を撮りにいった。友達が使うカメラは、シャッターボタンを半押しするだけで、レンズが伸びたり縮んたり、絞りが開いたり閉じたりして、彼は次から次へと写真を撮っていた。他方で僕は、まず被写体との距離を目測しおおまかにフォーカスをする。そして体感で露出を推測して絞りとシャッタースピードを設定する。それからファインダーを覗きながら構図を考える。しっくりくる構図が見つかったら、ピントと露出を修正する。そして息を吸い込んで止め、カメラをしっかりとホールドし、ゆっくりとシャッターボタンを押す。ガシャンという機械的な音を立てながらミラーが跳ね上がり、光がフィルムへと吸収される。それからレバーでフィルムを巻き上げる。これでようやく一枚の写真が撮れたことになる。その間に友達はすでに何枚も撮ってしまっている。

 僕のカメラを少し使ってみると友達は、めっちゃ面倒くさいなあと言った。たしかに、僕のカメラには彼のもののように便利な機能は一切備わっていない。ただ、写真を撮るのに必要最低限な機構だけが用意されている。僕は彼にクラシックカメラの魅力を語ったものの、彼はいまいち腑に落ちていないようだった。彼もフィルムで撮影することはあるが、使っているフィルムカメラミノルタのかなり新しいやつで、オートフォーカスもオート露出もあるし、巻き上げや巻取りも全部自動である。あくまでも彼はカメラに便利さを求めるようだった。

 それでも僕はそうした便利なカメラにはまったく惹かれない。僕は好きだからあえて不便な古くさいカメラを使っているのだ。それは、さっき言ったような、撮影にまつわる一連の作法を楽しみたいからだ。僕はもともとべつに写真が撮りたかったわけではない。先生にカメラを借りて使うようになるまでは、スマホのカメラでもめったに写真を撮らなかった。むしろ、観光地や飲食店で、やたらめったらに写真ばっかり撮っている連中のことを苦々しく思ってすらいた。その僕がいまこうしてカメラを新たな趣味として楽しむようになったのは、機械としてのカメラを使うという作業に魅力を感じたからだ。

 スマホのカメラや、あるいはデジタル一眼レフやミラーレス一眼であっても、とくに何を考える必要も、難しい作業も必要なく、ただシャッターを押すだけで次から次へと写真を撮ることができる。僕にとってそれはとても味気ないことだ。フィルムカメラだと、まずは自分が撮りたい被写体や撮影環境(それからもちろん値段)を考慮してフィルムを選ぶところから始まる。今日は快晴だからISO100にしようとか、人を撮るから肌がきれいに映るフィルムにしようとか、そういうことである。それからいざ撮影するときも、すべて自分で考えて設定を決める(そうでないフィルムカメラもあるが)。そうして撮った写真は、まさに他でもない自分が撮った写真である。それに対して、オート機能に任せっきりで撮った写真は、自分で撮ったのではなくカメラに撮らされた写真だともいえる。

 これはべつに、写真の基礎が学べるから良いということではない。もちろんそれもあるが、問題は、何が目的なのかということである。ただきれいな写真が撮りたいというだけなら、間違いなくデジタルカメラを使うべきである(それも一眼ではなくコンデジで構わない)。それは、抹茶が飲みたいのならば茶道を習う必要はなく、辻利に行けばいいというのと一緒である。しかし、自分でお茶をたてるということが目的ならば、茶道を習うほかない。僕の場合、目的はきれいな写真という結果ではなく、カメラを使って写真を撮るという過程なのである。そして、それを楽しもうと思うなら、フルマニュアルのフィルムカメラを使うのがいちばんである。

 それから、フィルムカメラの最大のメリットは、よく失敗をするということである。フィルムにはそれぞれISO感度が決まっているから、それに見合わないような撮影環境なら当然きれいに映らない。また、露出を間違えればすぐ白飛びしてしまうし、マニュアルだからピンぼけも頻繁に起こる。もちろんデジタルで撮っていても失敗はするだろうが、デジタルだったら同じ被写体を違う設定で何度も撮影し、失敗した写真はデータを消してしまえばいいだけのことである。だが、フィルムは途中で設定を変えることはできないし、一度撮影した写真をなかったことにしてしまうのもできない。ネガを捨てることはできるが、そのネガにかけたお金は戻ってこない。一枚一枚に少なくないお金がかかっているからこそ、一回一回の撮影にすごく集中する。その分、失敗したらとても悔しい。しかし、悔しいからこそまた撮りたいと思う。上達したいと思う。その悔しさも含めて楽しむのがフィルムカメラのたしなみ方である。

 そして、たくさん失敗する中で、たまに奇跡のように美しい写真が撮れることがある。そんなときは、失敗の数が多く、またその悔しさが大きいからこそ、ようやく捕まえることができた奇跡的な一瞬に対する思いはひとしおである。そんな写真は、自分にとってほんとうに宝物のようになる。それを撮ったときのことも含めて、思い出になるのだ。だが、失敗写真もまた貴重である。そこからは、なぜ失敗して、どこに改善の余地があるのかを学び取ることができるからだ。そのようにして、少しずつ成功率を上げていくのである。そのためには、まずはカメラの操作に熟達しなければならない。

 このようにして、フィルムカメラで写真を撮るということは、決して楽なことではない。いつも満足の行く結果が約束されているわけでもない。だが、デジタルカメラが平均70点を出すことに長けているのだとすれば、フィルムカメラは40点以下を連発するかわりに、稀に98点を叩き出すこともある。一本撮り終わって現像に出していたフィルムが帰ってきて、一枚一枚眺めていく中に98点の写真があったときの快感は、なにものにも代えがたい。撮ってすぐデジタルカメラの液晶画面で確認するのとはわけが違う。それは、かつて撮った自分の写真との、そしてその写真を撮ったときの自分との、感動的な再会なのである。だから僕は、これからもフィルムカメラで写真を撮り続けるし、いつかフィルムの生産がすべて終わってしまったときには、おそらくカメラ自体をやめてしまうだろう。