義憤にみせかけて憂さ晴らしをする者たち

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 "Japan's secret shame"(「日本の隠された恥」)というBBC制作のドキュメンタリーを見た。フリージャーナリストの伊藤詩織氏が、同じくジャーナリストの山口敬之氏に性的暴行を受けたとして係争中の事件を取り上げた番組である。

 事件の内容についてはあまり触れたくないのだが、仮に性行為が同意のうえだったとしても、そもそも山口氏には妻子がいるわけだから、つまるところただの不倫である。どっちみち山口氏は潔白というわけにはいかない。レイプというふうに問題が巨大化したせいで見逃されている感じがする。

 さて、このドキュメンタリーで僕が気になったのは、視聴者の反応のほうである。番組に対するコメントは、非常に感情的なものが多かった。どちらの立場の人も、相手側を過激な言葉で口汚く罵るというありさまだった。

 伊藤氏に対する批判は個人に対する誹謗中傷だから紹介しない。僕が不思議に思ったのは、山口氏に批判的な人たちのコメントに、山口氏個人の罪を糾弾するというよりも、日本社会や日本人、とくに日本人男性を敵視するものが多かったことだ。「土人国家」「ジャップオス」そのような差別的な言葉が惜しげもなく使われていた。

 前々から思っていたのだが、このたぐいの発言をする人の本当の目的とは何なのだろうか。表向きは、この歪んだ社会を正さなくてはならない!という義憤にかられての発言なのだろうと思う。しかし、冷静になって考えてみれば、社会を正すための発言としてはあまりにも筋が悪いということくらい、すぐに理解できるはずである。

 たとえば、日本の警察における女性の割合が8%であるという事実に対して、「やっぱり日本は土人国家!」「警察はジャップオスに支配されている!」などと言うとする。だが、そうした現状を変えていけるのは「土人国家日本」であり「ジャップオス」なのが現実である。「土人国家日本」や「ジャップオス」と協力していくことで、はじめて問題は解決へと向かうのである。

 それでは、「土人国家日本」の警察を支配している「ジャップオス」扱いされた、警察官として日夜、一生懸命に仕事を頑張っている男性たちが、「そうかわかった。それじゃあ一緒に問題を解決していこう」となるだろうか。なるわけなかろう。

 伊藤氏やBBCは、冷静に客観的にデータを集めて、事実を追求しようという姿勢をとっている(そうでない部分もあるが)。そんなところに、「土人国家」「ジャップオス」などという憎悪に満ちた表現を使う人が、あたかも伊藤氏の味方であるかのように振る舞っている。

 はっきり言って、伊藤氏の味方であるかのように振る舞っている者たちは、義憤にみせかけて憂さ晴らしをしているだけにしか思えない。顔と実名を明かして問題提起をした伊藤氏の勇敢さと、それをバックアップするBBCの権威に便乗して、匿名で好き放題言いまくって日常の不満を解消しているだけではないのか。

 これと同じことがHagex氏の騒動についても言えると思う。

 僕はHagex氏のいわゆるネットウォッチ活動については詳しくないが、そのなかではイケダハヤト氏やはあちゅう氏もターゲットにされていたようである。僕の見方ではイケハヤ氏やはあちゅう氏には実際に批判されて然るべき言動がある。だからそれをHagex氏が批判していたのは義憤に基づいた行為と言って良いと思う(家族いじりとかは良くないが)。

 いっぽうで、Hagex氏にもまた匿名で便乗する連中がいた。はてなブックマークのユーザーらである。彼らはHagex氏が展開する論にタダ乗りし、自分では何らのエビデンスや論理を積み上げることもなく、イケハヤ氏やはあちゅう氏を叩きまくっていた。その動機を義憤とするのはどう考えても認められない。単なる憂さ晴らしである。

 僕はネットの匿名性は否定しないし、むしろ保持するべきであると思っている。私たちはふだん社会では人目をはばかって、うかつにものも言えない。だからあるていど本音でものを言える場としてのインターネットは貴重である。だがそれはあくまでも、みんな匿名の場(2chTwitter)だから言えるのであって、不特定多数の匿名vs現実の個人という構図になってしまったら、それはもう「いじめ」である。

 たちが悪いのは、単なる憂さ晴らしが義憤にみせかけられている点である。そして、みせかけの対象は何も批判している相手だけでなく、批判している者自身もなのだろう。つまり、批判している本人も、それが憂さ晴らしだとは思っていないのである。これは義憤なのだ、自分は正義の側にいるのだ、と自分に信じ込ませることで、何の罪悪感もなく他人を袋叩きにすることを成し遂げる。いわば自己マインドコントロールである。

 これは何もインターネット上にとどまる話ではない。たとえばちょっと前にずいぶん話題になっていたSEALsの運動も、ほんとうに義憤に駆られてやっていた人は一握りだろう。それは彼らの言動の浅薄さを見ればわかる。安倍首相のイラストを書いた太鼓を叩きまくるとか、何でもかんでも安倍政権の思惑に仕立て上げるとか、結局は、不特定多数が寄ってたかって特定の個人を誹謗中傷する「いじめ」に過ぎない。

 絶対に反撃してこない(これない)人を対象にして、みんなで群れて大声でくそみそに貶す。終わったあとはみんなで居酒屋にいって酒をあおりながらまた大声で薄汚い言葉を喚き散らす。憂さ晴らしにしてもたちが悪い。

 ほんとうに社会を正しく変えていきたいのならば、まず自分(たち)自身ができる限り正しくあろうとしなければ話にならない。それはたとえば、感情的になって過激な言葉を使わないとか、客観的・論理的に自分(たち)の意見を主張するとか、自分(たち)の言動にきちんと責任をもつとか、批判している相手とも協力する姿勢をもつとか、そういうごくごく常識的なことなのだ。それすらできないのならば、社会を変える前にまず自分を変える努力をするべきだろう。

 そうでなくて、ただ憂さ晴らしをしたいだけなのならば、それを義憤にみせかけたりしないことだ。自己の中の汚い部分を表面だけきれいに取り繕ったりしてはいけない。汚い部分があるのは悪いことではない。汚いものは汚いままで、汚れを抱えて生きていく。それが人間というものだ。