「子どもには○○をさせたい」という親への違和感、そして軽い気持ちで子どもを生む罪深さ

f:id:beethoven32111:20180624004002j:plain

 夕方の情報番組「ten」では、番組の最後に「めばえ」というコーナーがある。その日赤ちゃんが生まれた家族を取材して、名前を紹介するという内容である。僕は毎日というわけではないが、以前よくこのコーナーを見ていた。そこでひとつ疑問に思うことがあった。

 その疑問は、赤ちゃんが生まれたことについての両親の(とくに父親の)コメントに対して抱いたものだ。サッカーが好きだというある父親は、「子どもにはサッカーをさせたいですね」「将来はサッカー選手になってほしい」と言っていた。僕はそのコメントに対してツッコミを入れたくなった。

 「おいおい、お前の好みを子どもに押し付けんなよ! 子どもはお前のために生まれてくるわけじゃねえんだぜ。頼んでもいないのに誕生させられるんだよ。だったらせめて、子どもがやりたいことをやらせてやらねえと可哀想じゃねえか」

 生まれてくる子どもが何を好きになるかなどわからない。運が良ければサッカーを好きになってくれて、一緒にプレイできるかもしれない。しかし、そうではない確率も十分にある。野球が好きになるかもしれない。テニスかもしれない。あるいは、スポーツなんかには一切興味を示さず、読書に邁進する子になるかもしれない。

 まあ初めて子どもが生まれて嬉しいんだろうから大目に見るべきだと言う向きもあるかもしれない。もちろん、その場の軽い気持ちでした発言に過ぎず、実際に子どもが成長したら子どものやりたいようにやらせてあげるなら、それで何の問題もない。

 だが、世の中を見ていると、「子どもには○○をさせたい」というのを実現してしまう親がびっくりするぐらい存在していることに気づく。大きい例なら医者の親が子どもも医者に仕立て上げようと躍起になったり、あるいはもう少し卑近な例を挙げれば、子どもには絶対に○○大以上の大学に行かせる(あるいは大学に行かせず就職させる)といったものがある。

 そんな人生に深くかかわる問題以外にも、日常のささいな場面でもやたらと自分の意向を押し付ける親がいる。子どものために買う商品を選んでいるときに、子どもがほしいと言っているのを無視して、こっちのほうが○○だからこっちにしなさい、というように。金銭的事情なら仕方がないが、そうとは限らず、似たような値段で異なるデザインとかいう場合でもこんなマネをする親がいるのである。

 僕の親はまったく押しつけをしなかった。父親は勉強しろ勉強しろと口では言っているものの、実際に一日何時間だとかいって行動を縛り付けることはしなかった。いちおう第一志望ということにしていた(僕はあまり行く気がなかった)大学に落ちて、ひとつ下のレベルの学校に行くことになったときも、とくに何も言わなかった。母親はもっと放任で、道徳的に問題がなければ何をしても文句を言わなかった(そして僕は反道徳的なことはしなかった)。

 だから、親の意向を押しつけられてしぶしぶ意志を曲げている子どもを見かけると、とても悲しい気持ちになる。ああ、この子はずっとこうして親の言うなりになるように躾けられて、次第に自主性を失っていくのだろうな、と。そして、自主性のない人間が社会で成功を収めるのは難しい。子どものためを思って躾けているつもりかもしれないが、結局は、将来子どもが社会でいきいきと活躍する素質を奪っているだけなのである。

 僕はアルバイト先で、子どもも参加するワークショップの講師もしている。そのなかで、子どもが成長する機会を奪っている親や、あるいは子どもの成長をまったく後押ししない親をたくさん見る。ワークショップの工程で難しい作業が要求されたとき、勝手に子どもには無理だと決めつけて自分でやってしまう親や、ちょっと子どもが「やってー」と言ってきたらすぐに助けてしまう親である。子どもには難しそうかなと思う作業でも、まずは見守ってやるべきなのだ。手伝うのは、やってみて無理だとわかってからで良い。そして、もし手伝うにしても、まるっきりやってしまうのではなく、どうしてもできないところをだけにとどめるべきだ。

 あるいは、誤った道具の使い方をしている子どもを、ただボケーッと見ているだけの親も多い。そのときは僕が、これはこういうふうに使うんだよ、と手本を見せる。すると子どもはすぐに吸収して、次からはきちんと正しい使い方をするようになる。そんなとき僕は親になったような気持ちで嬉しくなるが、いっぽう本当の親は相変わらずボケーッと見ているだけで、僕に一言礼を言ったりもしない(最悪なのはずっとスマホをいじっている親だが、これは親ですらない何か別の生き物なのでスルーする)。

 この少子高齢化の日本においては、子どもを生み育てているというだけで立派なものである。それはそれとして、子どもがひとりでに成長するのに任せてボケーッと「傍観」するのでも、自分の思い通りに作り上げようと「加工」するのでもなく、しっかりと「教育」をするべきなのだ。でなければ、長じて社会に出てたときに一方ならぬ苦労をするのは他でもない子ども自身である。

 そもそも、子どもを生むというのはどういう行為であるか。それは一人の人間を、否応なくこの世に産み落とすということである。それはつまり、一人の人間を、やがて死へとたどり着く長い長い旅路につかせるということである。そして、その長い旅路において経験する喜びも楽しみも、悲しみも苦しみも生むということである。

 日本という国はこれからありとあらゆる問題に直面していく。社会は年を経るごとに段々と窮屈に、そして不寛容になっていっているように思える。生まれてくる子どもは、ひょっとすると学校でいじめられて不登校になるかもしれない。非行に走って警察のお世話になるかもしれない。大学まで卒業したのに就職もせず引きこもるかもしれない。親孝行など一切しないかもしれない。苦しみの末に自殺してしまうかもしれない。人を殺してしまうかもしれない。

 これから親になろうとしている人は、もし子どもが自分の望み通りに育たなくても無条件に愛し続けることができますか。もし子どもが一生定職につかなくても養っていくという覚悟がありますか。もしかしたら、いつか自分の子どもが他人の命を奪ってしまうかもしれないという可能性を承知していますか。子どもを授かるということの喜びだけでなく、その責任の重大さも認識していますか。

 そこまで深く考えなくても良いと思いますか? いいえ、断じてそうではありません。なぜなら、子どもは自分の意志で生まれてくるのではなく、親の意志で生まれさせられるからです。そして、子どもは自分の親を選ぶことができないからです。子どもをもとうと思うのなら、立ち止まって考えてみてほしい。子どもとは、いったい、誰のために生まれてくるのかを。無論、答えは明白だ。考えるまでもない。もしわからないのならば、いまのあなたには、子どもを授かる資格はない。