天国の中にあって地獄を忘れまい

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 僕はいま幸福の絶頂にいる。生まれて初めて死にたいと願わなくなった。こんな日が来るとは思いもしなかった。何があったかと言えば、本当にいろいろあった。大きいことから小さいことまで、いろいろあった。そうしてようやく、僕は生まれて初めて本当に心の底から幸せだと思えるようになった。いまは、世界が以前に比べて見違えるように輝いて見えるし、幸せそうな他人を見ても羨望や劣等感を覚えることがなくなった。不安しかなかった先行きに対して、楽しみだと思えるようにまでなったのである。

 だが、そんな幸福の中にあっても、僕は以前自分が生きていた地獄のことは決して忘れまいと心に誓っている。いま思えば地獄というほどのことでもなかった気がするが、少なくとも、その真っただ中にいる僕にとっては紛れもなく地獄のような日々であった。

 地獄に生きているときの気分はこのようなものである。自分という存在の価値はゼロに等しいように感じる。この世の何もかもが霞んで見える。文字通りお先真っ暗、将来には絶望しかないように思える。自分の人生には何一つ良いことなどなかったと決めつける。そして何よりも、自分がいま地獄に生きていることを宿命か何かのように考え、そこから抜け出すことは一生不可能なのだと受け容れようとしていた。

 しかし、そういった気分はすべて(ほとんど)誤りだった。自分には自分でも気づいていない価値がきちんとあった。この世には光り輝く良いものがたくさんある。先のことは分からないが、それはむしろ希望である。来し方には素晴らしい思い出が数えきれないほどあった。そして、この世には、たしかに天国と地獄が存在し、なおかつ、天国と地獄の住人はあらかじめ定められているように思えるが、実際はそうではなく、天国に住まうか地獄に住まうかは、自分自身であるていど選択することができる。

 こういった感覚とともに生きることは、まさに天国での暮らしのようだ(無論、天国の暮らしがどのようなものかは知らないが)。以前、僕は自分の将来に悩んでいた。自分は幸せになることはできないと決めつけていたから、少なくとも苦労の少ない、楽な人生を送るにはどうすればいいか考えていた。最も大きな問題は、やはりどのような職に就くかということだった。しかし解決策はでるはずもなかった。それもそのはずで、自分の価値を正しく認識できていない人間に、適職を判断することなどできわけがなかったのだ。

 だがいまは、自分の将来に悩むことは、ほぼなくなった。正直に言って、どんな職業に従事するかは僕にとって全く重要なことでなくなった。もちろん、あまりにも向いていないような職種ではいけないが、そうでなければ(良い意味で)選り好みをするつもりはない。特にやりがいを求めようという気もしない。ただ、僕ひとり、あるいは僕ともう一人、つつましく、静かに、幸せに、生きていけるだけの時間とお金(「お金と時間」ではない!)さえ手に入れば、手段は問わない。もっとも、できれば家でできる仕事がいいとは思うが。

 僕にはいまのところ夢も目標もない。しかし、それで良い、いやむしろ、それが良いと、いまは思っている。これについてはまた単独で記事を書くつもりにしているが、夢や目標というのは時に人間を縛る軛(くびき)になるからだ。僕は夢や目標のために努力をする人間になりたいとは思わない。あくまで、自分自身のために、あるいは大切な人のために努力をしたい。まずは人、それから概念。夢や目標の奴隷になってはいけない。

 そして、「何者」かにならなくてはいけないという強迫観念も、ほとんど霧消した。以前までは、卑小な自分への劣等感から、何者かにならなくてはいけないという漠然とした焦りに駆られていた。だがそれは百害あって一利なしのものだった。なぜなら、焦りから行動しても大して良い結果は出ず、結果が芳しくなければ劣等感は加速し、かといって、行動せずにいたら自分が周囲から置いていかれるような気がして暗い気持ちになるからだ。

 いまの僕は、「何者」かになろうなどとはつゆほども思わない。いまの自分で十分満足している。だからといって何もしないわけではない。むしろ、何者かになろうとしなくなったことで、逆にいろいろなことに前向きにチャレンジできるようになった。そして仮に良い結果が出なかったとしても無駄に落ち込むことはなく、すぐに立ち直って再挑戦することもできる。

 また、「何者」かになろうという思い、つまり世間的な分かりやすい成功を収めたいとか、より多くの人間に自分の偉大さを知らしめたい、というような欲望は消え去ったが、自分にとって誇れる自分でありたい、そして何よりも、大切な人に尊敬してもらえる自分になりたい、という願いはかつてないほどに強くなった。*1

 そんなわけで、僕は地獄から天国に移住することに成功した。しかし、最初に言った通り、天国の中にあっても、僕は絶対に地獄を忘れまいと胸に誓っている。それはなぜか。

 一番の理由は、この幸せは決して僕ひとりの手によって築き上げたものではないという事実に根差している。僕はずっと地獄で暮らしてきたが、地獄にも仏は少なからずいた。最終的に僕を地獄から天国へ引っ張り上げてくれたのはたったひとりの人だったが、そこまではいかずとも、地獄での暮らしの質を随分と向上させてくれた人はたくさんいたのだ。それはまずもって家族であり、そして先生など家族以外の大人、それからもちろん友人たち、あるいは、一瞬、不可思議な交流が生まれて、それから二度と会うことがなかったような人のなかにも、僕を救ってくれた人は数多くいる。

 そしてまた、僕にとって幸運な出会いは人とのものだけではなかった。場所との出会いもまたそうである。自分にとって安心できる居場所、それもひとつではなく、できれば複数あるのが良い。これも第一には家庭、そして学校、それからバイト先、あるいは僕は所属していないがサークルなどである。人との出会いは言うまでもなく重要だが、場所との出会いもまたどれだけ強調してもしすぎることはないほどに重要である。とはいえ、場所を作るのもまた人だから、場所との出会いも煎じ詰めれば人との出会いになるわけだが。

 つまり、僕は自力で地獄から天国へ上り詰めたのでは断じてない。ただ、カンダタ蜘蛛の糸を垂らした釈迦のように、僕に蜘蛛の糸を垂らしてくれた何人もの人のおかげで天国へと居を移すことができたのだ。そのことへの感謝の気持ちを忘れないためにも、僕は何があってもかつて自分が地獄で暮らしていた記憶を失ってはなるまいと決意している。

 もうひとつのとても重要な理由は、僕は運よく地獄から天国へ移住することができたが、いまだそうすることができずに地獄で苦しんでいる人たちもいるということだ。そのなかには、僕がかつてともに地獄で苦しんだ仲間もいるだろう。あるいはこれから僕が出会う人の中にもいるだろう。地獄で苦しんでいる真っ最中は、自分の運命を呪ったものだが、いまはそうではなく、地獄で苦しんだ経験を貴重なものだと思っている。なぜなら、同じような経験をした、経験している人の気持ちを少しでも理解し、共感することができるからだ。僕はこの能力を自分の Talent だと思っている。Talent とは(神から)与えられた贈り物のことである。*2

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 率直な気持ちとして、僕はいまの幸せをどこか信じ切れずにいる。本当に、せーのでタイミングを合わせたかのように、いろんなことが一斉にうまくいきはじめている。悩み事がなくなったわけではないが、それについて悩む時間は激減した。この違いはとても大きい。

 だが、あまりに幸せすぎるので、今度は逆にいつまた悪い波がやってくるのかと恐れる心が少しあり、また、いまも地獄で苦しんでいる仲間たちがいながら自分だけこんなに幸せになってもいいものだろうかという罪悪感めいたものもある。

 とはいえ、自分の幸せが自力によるものではなく他力によるものだということ、そしていま現在も苦しみのただ中にいる人の存在を忘れなければ、いまのところこの幸せに心行くまで浸っていいのだろうと思う。しかしいつまでも浸り続けるのではなく、そうやって得た幸せをやがては全体へと還元していきたいとも思っている。どのような方法でそれが成し遂げられるのか、また僕のような人間がそんな大それたことをできるのかはわからない。ただ、気持ちだけは持ち続けていたいものである。

 最後に、いままで僕のことを陰に陽に支えてくれた人たちに、最大限の感謝を伝えたいと思います。ありがとう、僕はもう(多分)大丈夫です。大変お世話になりました。今後は、これまで頂いた恩を力の限り返していく所存であります。

 それから、このブログを見ることは絶対にないだろうけれど、僕を地獄から天国へ引っ張り上げてくれたあなた、僕の大切な君に、この文章を捧げます。

*1:「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」

*2:再び、「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」