限定された人生の幸福―ジュゼッペ・トルナトーレ『海の上のピアニスト』

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Giuseppe Tornatore "The Legend of 1900"

 人生は無限の可能性を秘めている。そう言われるとき、恐らく、それは人生への賞賛の意味が込められているのだろう。あなたは何にでもなることができるし、何でもすることが出来る。どんな職に就いても良い。どんな人と結婚しても良い。だから、人生はすばらしい。もし人生が有限だったのならば、それは不幸なことだ。

 しかし、だれしもこのような経験があると思う。たとえば、ある飲食店に入ったとき、提供されている料理の数があまりにも多すぎて、注文をなかなか決められず数十分もかけて悩んでしまい、挙句の果てに、苦渋の決断で注文した料理を食べたあと、他の料理のほうがおいしかったのではないか、と一抹の後悔を覚えるような経験だ。

 このような経験が教えてくれるのは、無限の可能性とは必ずしも良いものではないということだ。もちろん、料理のメニューが無限であるはずはない。しかし、ディナーだったら100もメニューがあれば十分「無限」と表現するに差し支えない。100の料理のなかから1を選ぶという作業は、多くの人にとって強い決断力を要するものだ。長い時間をかけて100のなかから1を選び、そして他の99のほうが良かったのではないか、という疑念を抱くくらいならば、最初から1の選択肢しかないほうが、あるいは幸せかもしれない。

 人生も同様に、実際は無限というわけにはいかない。そもそも私たちは、生まれ落ちたその瞬間から決定的な不平等を抱え込まされている。知性・容姿・親の所得・出身地など、後の人生においてあまりにも重大な意味を持つステータスは、はっきり言ってすべて自己のコントロールの外にある。だから、人生はもともと無限などではない。

 とはいえ、そういった自分では決めることのできない事項を別にすれば、人生には無限に等しいような可能性が存在することもまた事実である。それこそ、今日のディナーは何を食べるかということからして、和食、洋食、中華、イタリアン、フレンチなど、いくらでも選ぶことができる。あるいは、進学、就職、結婚などの遥かに重大な決断においても、選択肢は無限とはいわずとも膨大だ。

 そんななかから、自分の理想と現実とをすり合わせて、最も適切と思われる道を選んでいく。これが極めて困難な行為であることは言うまでもない。だからこそ、後悔のない人生なんて送れない、のである。どれか一つの選択肢を選べば、他のすべての道を捨てることになる。しかも、選んだ一つの道が、他のすべての道に比べて優れていたという保証はどこにもないのである。

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 ジュゼッペ・トルナトーレ監督『海の上のピアのスト』の主人公、1900(ナインティーンハンドレット、これが名前である)は、豪華客船の上で生まれた。正確には、生まれて間もなく豪華客船に捨てられた。彼は機関士のダニー・ブードマンに拾われ、育てられる。あるとき、船のレストランに置かれていたピアノを目にした1900は、ひとりでに音楽を奏で始める。誰に教わったわけでもなくピアノを弾きこなす彼を見て、船員たちは驚愕した。

 1900は青年になってもなお船を降りようとはしなかった。毎日、船上のレストランで客たちを相手にピアノを弾く日々を送っていた。そんなあるとき、マックス・トゥーニーというトランペット奏者が、船上の楽団の一員として採用され乗り込んでくる。1900とマックスはすぐに打ち解け、無二の親友となる。

 1900の噂は船を飛び出して陸にまで伝わり、著名なジャズピアニストが1900と決闘するために船に乗り込んでくる。しかし1900はジャズピアニストを軽々と打ちのめす。そんな1900のもとに、演奏を録音してレコードを発売しないか、という話がやってくる。1900は言われるがままに演奏をするが、その途中、窓の外に現れた美女に一目惚れをする。彼は録音したレコードを持ち去り、彼女に渡そうとする。だが、結局、何度も機会を逃した末に、彼女は船を降りて行ってしまった。1900はレコードを砕いて捨ててしまう。

 どうしても彼女を諦めきれない1900は、ついに船を降りる決意をする。仲間に背中を見送られながら、ゆっくりと階段を下りていく彼。しかし、階段の途中でふとニューヨークの街を見上げ、聳え立つ摩天楼の数々をまじまじと見つめた彼は、そのまま踵を返して船に戻ってきてしまう。それからしばらくして、マックスは船を降りたが、1900は誰に勧められても、断固として降りようとしなかった。

 月日が経ち、1900が乗っていた船が爆破解体されることを知ったマックスは、工事の責任者の静止を押し切って強引に船に乗り込む。そして、1900が砕いて捨てたレコードをひそかに回収していた彼は、船の中でレコードを再生して回る。しかし一向に1900が現れる気配がないので諦めようとしていたそのとき、物陰から1900が話しかけてくる。

 船上での輝かしい日々について、そしてマックスが船を降りてからのこと、戦争中のこと、ひとしきり語り合ったのちに、マックスは、何としても船を降りなければならない、そうしなければ1900は死ぬのだと説得する。しかし、1900は拒絶する。理由を問い詰めるマックスに、彼はこう告白した。自分は、一度船を降りようと階段を下りていく途中に、高層ビルが立ち並ぶ街の風景を見て恐ろしくなった。あそこには無限がある。だが、無限のなかからどのようにして的確に人生を選択していけばいい? そんなことは不可能だ。ピアノには88個の鍵盤という限りがあるからこそ、そこから美しい音楽を引き出すことができる。人生も同じことだ。だから自分はこの船の上で生まれ、そして死ぬ。

 1900の言葉を聞いて、マックスは返す言葉もなかった。彼は1900に永遠の別れ告げ、船から降りて行った。まもなく、船は爆破され粉々に吹き飛び、海の底へと沈んでいった。ナインティーンハンドレットの伝説とともに。

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 私たちは、ともすれば1900の人生を不幸なものと考えてしまうかもしれない。産みの両親に船の上に捨てられ、一生船から降りることなく死んでいった男。一度も陸に上がることはなく、女性と付き合ったこともなく、就職もせず(仕事はしていたけれど)、家族もおらず、そして若くして「世間知らず」のまま死んだ。このような人生は御免だと思うだろうか。

 しかし、僕はそうとは限らないだろうと思う。彼の人生は、いわば生まれた家で育ち、そして一生をそこで過ごしたようなものだ。それは、ほとんどの人にとって得難い幸福なのではないだろうか。もちろん彼には産みの両親はいなかったが、大切に育ててくれた船員たちはいたのだし、したがって家族もいた。親友もいた。恋もした。そして何よりも、彼にはピアノが、音楽があった。

 私たちは、生まれてからだいたい20年くらいは両親の家で過ごす。そこではある程度外界から保護され、穏やかに過ごすことができる。だがいずれはそこから飛び出して、社会へと入っていくことになる。そこは荒れ狂う海のような場所で、溺れ死んでいく者も少なくない。もちろん、多くの人はそこで自分なりの幸せを見つけて生きていく。だが、だからといってそのような経験をせずに生きていくことが悪いというわけではない。

 1900のような極端な例はあり得ないだろうが、現実世界でも、いわば「世間知らず」のまま生きていくような人はいるのだろう。お嬢様とか、あとは芸術家とかがそうだろうか。僕が思うに、そういう人は一生、「世間知らず」のまま生きていくべきだ。それは許されるべきことなのだ。世間を知らないまま、純粋なまま幸せに生きていけばいいのだ。そういう人たちに、無理やり世間を教えてやろうなどという気を起こしてはいけないのだ。

 私たちの多くは世間を知って、そして多かれ少なかれ不幸になる。しかし、それは他人の幸福とは関係がないことだ。自分が不幸だからといって、他人まで不幸にさせる権利は誰にもない。自分の苦労を他人にまで背負わせる権利も、誰にもない。混じりけのない、楽園のような幸福がこの世に存在するとしたら、それは私たちにとっても夢のある話だ。そう思って、物まね鳥をそっとしておくべきではないか。