優しい人が優しくなれない社会なんていらない

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 優しい人と優しくない人なら、優しい人が良いに決まっている。それは、自分も相手もそうである。恐らく。相手が優しい人だったら、くつろいだ関係を持つことができるし、心が温まる。そして、自分だって優しくあったほうが良い。理想のうえではもちろん、実利のうえでも同じである。相手に優しくすれば、相手に優しくされる確率は高まる。だから、実利的に考えても、優しさを持つのは有益なのである。

 僕は常々、ぼんやりと疑問に思っているのだが、「優しい人」と「優しくない人」が社会に占める割合というのはそれぞれどのくらいなのだろうか。もちろん、「優しい人」と「優しくない人」を単純に分けて考えられるわけはないのだが、まあそこはアバウトに。いつでも、誰に対しても、概ね「優しく」いられる人は、いったいどのくらいいるのだろうか。

 あるいは、「優しくありたいと思っている人」ならどうだろうか。これは恐らく、「優しい人」よりもはるかに増えるのではないだろうか。かくいう僕も、「優しくありたいと思っている人」である。多分。さっき言ったように実利のうえでも「優しく」あることは自分にとって有益なのだし、もちろん理想として「優しく」ありたいとも思っている。

 しかし、「優しく」あるためには、そうでありたいという気持ちだけでは足りない。ぜんぜん足りない。気持ち以外に何が必要かと言えば、ざっと思い浮かぶだけでも、まず周囲の人を含めた環境、それから健康な身体、そして充実した時間、などなど。これらが満たされていれば、他者に対して「優しく」なることは容易である。自分の心が満たされた状態ならば、他者の些細な振る舞いに対しては寛容になることができる。これは多くの人に納得してもらえると思う。

 だが、快適な環境、健康な身体、充実した時間の三拍子揃った生活をできる人間がこの日本に、いや世界にどれだけいるだろうか。このなかで最も欠けやすいのが環境、そのつぎに時間である。仕方ないがこの世界は快適でない環境があまりにも多い。日本は曲がりなりにも先進国だが、正直に言って環境の快適さにおいてはいわゆる開発途上国と比べても大差ないのではないか。いやもちろん僕は開発途上国で暮らしたことがないのでわらかないのだが。

 無論、数はごくごく少ないが、どんなに厳しい環境、不健康な身体、空虚な時間に苛まれていても、いつでも誰に対しても「優しく」あれるような人もいる。といいながら僕は見たことがないが、恐らくいるはずだ。しかしそういった人たちはまあいえば「超人」である。自分が厳しい状況に置かれていながら、他人に厳しくしないでいられる人というのはまさに尊敬に値する人格者といってよい。

 とするならば、「優しくありたいと思っている人」つまり潜在的「優しい人」の多くは、劣悪な状況に抑圧されて、「優しくない人」であることを余儀なくされているという現実があるのだろう。これは嘆かわしいことである。「こうなりたい」という気持ちがありながらそれを実現することができない。これは最も大きなフラストレーションのひとつである。そして、「優しくありたい」と思うような人は当然、性根が優しい人なので、他者に対して「優しく」できなかったらその都度、深く落ち込んでしまうものである。そしてさらに精神的に余裕がなくなって、さらに「優しく」なくなってしまう。

 そしてそういった、抑圧された潜在的「優しい」人の一時的な「厳しさ」に触れた他者は、ひょっとするとふてくされて「優しく」なくなってしまうかもしれない。事実、私たちは人に優しくされたらその相手だけでなく他の人にも優しくしたくなるし、反対に、意地悪なことをされればその相手に仕返しするか、それが無理ならまったく関係のない第三者に腹いせをしたくなるものである。これ次々に連鎖していく。このようにして私たちは、お互いの首を締めあっている。

 そして僕は思う。優しい人が優しくなれない社会なんていらない、と。適当な推測だが、世の中の人の6割から7割の人は本当は優しい人である。なぜなら、他者に対して「優しく」あるほうがそうでないよりもよっぽど良いことが多いからである。それはみんな薄々分かっている。あるいは重々承知している。そのうえで、人生の様々な事情によって、一時的に「優しさ」が押さえつけられているだけなのである。

 ではいったい誰が悪いのかと言えば、それはもちろん「社会が悪い」ということになってしまう。どうも「社会が悪い」という言葉を発するのはバツが悪いが、本当にそうとしか言いようがないので仕方がない。人を意地悪にさせるような状況を生み出しているのは、誰かひとりの個人ではない。ただいろいろな事情が複雑に絡み合った結果、まるで自然に発生するかのように形成されていくのである。

 しかし、「優しい人」が「優しく」あれるような社会であれば、潜在的に「優しい」人がその人自身の「優しさ」を殺されることなく、「優しい」ままに自己実現していくことが可能になる。そしてそれは必ず連鎖していく。そのようにして社会はいずれ「優しい」人によって満たされていく。まるっきり夢物語のように響くけれど。

 改めて言おう。僕は、優しい人が優しくなれない社会なんていらない、と思っている。そして同時に、僕はきっと多くの人が「優しさ」を持って生きているのだと信じている。だから、それらの「優しさ」が虐殺されることなく、最も良いかたちで世の中に顕現していけるような社会をなんとか作っていきたいと考えている。いまのところは、無力だけれど。