集中する、あるいは別の何かになるということ

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 現代的生活は私たちが何かに集中することをしきりに邪魔しようとする。あるブログの記事を読んでいれば、そこには副次的な情報が次々と目に飛び込んでくる。たとえばそのブログのほかの記事、ほかの人が書いている似たようなブログ記事、それからブログとはまったく関係がない広告などである。これらのものは、私たちが目的を果たそうとすることを徹底的に妨げ、私たちの関心を自分たちのほうへ向けようと必死になって訴えかけてくる。こっちのほうが面白いよ! と。

 僕は集中力がないほうだと自認している。インターネットサーフィンをしだすと、いろんなサイトをいったりきたりしながら気づいたら2時間とか経っていたりする。最初は Amazon で次に読む本は何にしようか決めてようとしていたはずなのに、いつのまにか YouTube で動画を見ていたりすることがしょちゅうである。

 しかし、何かに集中するということは私たちの人生にとって非常に良いことである。それは成功への近道であるだけでなく、日々を平穏に暮らすためにも欠かせない。

 「集中する」ということを別の言葉で表現してみる。たとえば「熱中する」。あるいは「夢中になる」。これらはどちらも集中と意味だけでなく字面も非常に似ている。集中は集まる。熱中は熱する。夢中は夢みる。

 集まるというのはおそらく意識のことだろう。意識が一転に集まることで力が局限化することがすなわち集中である。熱するというのはもちろん私たちの心、ひいては身体のことであろう。何かに熱中しているとき、私たちの心は熱くなる。そして心が熱くなると、あるいは逆かもしれないが、身体も熱くなる。

 夢みるというのは少しややこしいが、たぶんこういうことだ。夢のなかでは私たちは基本的にすべてをありのまま受け容れる。何も疑問に思うことがない。朝起きたら突然自分が毒虫になっているのを発見したとしても、夢のなかであれば疑問を持つことはない。同様に、夢中になっているときには、何に対しても疑問を持つことがない。まるで夢のなかにいるかのように、物事をすべてありのままに自分のなかに受容していくような状態、それが夢中ということだろう。

 さらに別の言葉を探してみる。「没頭する」というのはどうだろう。この言葉の語源を僕は無学にして知らないが、字面を見てみると実に面白い。頭が没すると書いて没頭である。何に没するのか。それはもちろん、没頭している対象であろう。思考を司どる私たちの頭が何かに没する。そして私たちはその対象だけを、いやむしろ「その対象の内側から」思考するようになるのである。これに似た言葉として、「没入する」というのもある。この場合、何が没入するかは明示されていないが、当然、「私」である。私が、何かに没して入り込む。本質は没頭と同じである。しかし没頭が頭だけであるのに対し、没入は全身という感じがするから個人的にはより好きだ。

 しかし、「集中する」を別の言葉に言い換えるとしたら、僕は「忘我」というのが好きだ。我を忘れるということだ。あるいは「無我」でも良い。我を無くす。私たちは何かに集中しているとき、確実に自分のことを忘れている。そして自分という存在は無くなる。自分が誰であるか、どのように生きてきたかといったマクロな視界も、いま現在悩んでいることや今晩のおかずのようなミクロな視界も、何かに集中して取り組んでいるときはシャットアウトされる。そして取り組んでいる対象しか見えなくなる。というよりも、「その対象になる」のである。

 そう、私たちは何かに集中することで、その「何か」になることができる。たとえば読書をしているのであれば、私たちは読んでいる「その本」になる。文章を書いているのであれば、書いている「その文章」になる。音楽であれば、聴いているあるいは弾いている「その楽器」そして「その音楽」になる。スポーツであれば、野球ならバットやボール、グローブといった「道具」になる。一体化するのである。そして私たちは、普段の自分がどういう人間であるのか、あるいは過去どうであったか、あるいは未来にどうなるか、そういった一切のことを「自分」のなかへ置き去りにして、その「何か」へとダイブしていくのである。

 だから、何かに集中するということは私たちの精神にとっても非常に重要だということは、どれだけ強調しても強調しすぎるということはない。私たちの日常はあまりにも煩雑な些事に溢れていて、あるいはどうしようもない悲惨に満ちていて、その日常のなかで常に「自分」という存在であり続けることは負担が重すぎるのである。何かに集中し、熱中し、夢中になり、没頭し、没入し、そして忘我の状態になることで、自分ならざる何かになってしまい、そういった負担から一時的にせよ逃れることができる。

 さらに、そうやって自分ならざるものになる状態を積み重ねていくことで、本当に自分ならざるものへと変容していくこともできるだろう。何かに集中するということは、何かに習熟するということと表裏一体である。そうして何かに習熟していくことで、自分という存在は少しずつ少しずつ、だが確実に別の存在へと変わっていく。人間とはそのようにして成長し、進歩していく。

 集中しよう。そうすれば私たちは日常から逃れることができる。集中しよう。そうすれば私たちは何かを熟達することができる。集中しよう。そうすれば私たちは一時的に自分ではない何かになることができる。集中しよう。そうすれば私たちは、いつか永久に自分ではない何かになっていること、そしてもはやもう二度と元の自分には戻ることができないことを発見するはずだ。