無邪気に伸ばした手がすべてを掴めれば

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 青年は無根拠な万能感を持っているとよく言われる。自分はやれば何でもできるはずだ。自分には何か特別な才能があるはずだ。自分には何か大きな使命が与えられているはずだ。自分にしか出来ないことがこの世にはあるはずだ。そんなふうに無邪気に信じ込むのが世の青年というものらしい。

 実際に世の青年が皆そういうふうに考えているのかは僕には分からない。たしかにそのように見える人もいれば、まったく逆で自分には何もできやしないと絶望している人もいるように思える。それは一目見れば分かるような気がする。前者の人間は、歩く姿も意気揚々としていて、目線はまっすぐ前を見据えている。全身から薄ぼんやりとした光を放っているようにさえ見える。一方で後者の人間の足取りは重い。顔はいつも俯いて地面を見つめ、漂う雰囲気もどことなく陰気だ。

 僕はずっと後者だった。ひょっとすると幼稚園児か小学生だったころくらいまではそういうイノセンスが僕にもあったかもしれないが、記憶にある限り自分には何でもできるはずだなどという無根拠な万能感を持っていたことはない。

 いわば必要以上に冷静で客観的な子どもだったわけだが、それが果たして自分にとって良かったのかどうか分からない。いや、僕にはむしろ、青年期に無根拠な万能感を持つことができた人のほうが恵まれているのではないかと思う。

 たしかに、そういった青年期特有のイノセンスは痛々しいものである。傍から見ていれば何ひとつ一人前に出来ていないくせに自信だけはいっちょまえにあるのだから、これほど滑稽なものはない。そして、イノセンスは実に壊れやすいものだ。ガラスのように砕け散った己のイノセンスで一生消えない傷を負ってしまう者も多くない。

 その点、僕はそういった不幸とは無縁だった。常に自分の客観的な実力を可能な限り性格に見積もろうと試みてきたし、ときおり感じる万能感はすべて無根拠でほぼ間違いなく誤りであるということも予め知っていたので、それが顔を覗かせたときは押さえつけていた。つまり、ある意味では自分を過小評価することが僕の基本的な姿勢だった。

 ところが、そうやって20年生きてきて、僕はいったい自分の手で何を掴むことが出来ただろうか。何ひとつ掴めていないやしない。無力で卑小な「何も出来ない」自分を「正しく」認識し続けてきたのは、すなわち自分が「何もしない」ことを許容し続けてきたことだったのだ。

 もちろん、何事に対しても慎重であることで獲得した利益も計り知れない。だから、それはトレードオフなのだ。積極的であることの利益を放棄した結果、僕は慎重であることの利益を手に入れた。それをいまさら嘆くことは生き方として不誠実だ。積極的であり続けた人はきっともっと慎重になればよかったと後悔している。そういうものなのだ。

 しかし僕は思う。それでも無邪気さは必要だと。もしそれが自然に備わっていないのであれば、たとえ捏造してでもゼロから作り上げなければならない。無邪気さは、たしかにこの世のありとあらゆることを可能にしてはくれない。だが、この世のありとあらゆることに挑戦することは可能にしてくれる。そして挑戦は成功の可能性を導く。

 ただの万能感ではなく、無邪気な万能感。自分は何でも出来る。他人には出来ないことを容易にやってのけることが出来る。自分にしか許されていない何かがある。自分がやらなければ誰もやらない何かが自分を待っている。そういった傲慢な万能感は僕には必要ない。ただ純粋に自分の力を信じる心。夢と希望を持つだけの力。邪な想いが混じっていない澄み切った万能感。僕に必要なのはきっと、それだ。