この歳にして好奇心が急速に弱まっていくのを感じる

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 「好奇心は猫を殺す」イギリスのことわざである。もともと英語には「猫に九生あり」ということわざがあり、その猫ですら好奇心が原因で命を落とすことがあるということらしい。もちろんこのことわざが意味するのは猫の生き死にではなく、人間のそれである。好奇心を持ちすぎることは身を滅ぼすことにつながりかねない、と我々を戒めているのである。

 しかしながら、個人的には、好奇心を持ちすぎて身を滅ぼすことよりも、好奇心を持たなすぎて身を滅ぼすことのほうが往々にしてあるのではないだろうかと思う。その昔ピエール・ブーレーズという偉い作曲家がいまして、彼は「人生における普遍的なあるべき考え方」を問われ、「好奇心を持ち続けること」と答えたそうです。芸術家であった彼にとって好奇心は無論すべての原動力であったに違いない。とはいえ芸術家でない僕のような人間にとってもやはり好奇心というのは何よりも重要だろうと思うのである。

 好奇心というのは、要するに自分がよく知らないものに対してあれは何なんだろうと知りたがる気持ちのことである。ところで好奇心と興味というのは何か違うのだろうか。それぞれ独立した単語として存在しているわけだから当然何か違うのである。僕が思うに、興味というのはある特定の対象に限定されるもので、好奇心というのはより広汎な対象を持つものである。つまり「僕は音楽に興味がある」とは言っても、「僕は音楽に好奇心がある」とは言わない。しかし好奇心旺盛な人は、やはり音楽にもそれなりの興味を持つはずである。まず好奇心があって、そこから興味というものもまた生まれてくる。そう考えて概ね間違いではないだろう。

 さて、私たちにとって「興味」というものがどれほど重要であるか、これを否定する人はまさかいるまい。なぜなら興味というものは、私たちが何かを能動的にすることの動機になるからだ。興味のないことをしたり、興味のないものを見たり聞いたり学んだりすることは大半の人にとって苦痛である。何にでも興味を持つことができるのならば、私たちは次から次へと新しいことに挑戦し、見て聞いて学ぶことを楽しめるのである。そしてそれほどに重要な「興味」の源泉は、先ほど言ったように好奇心なのである。

 十人十色、好奇心にも旺盛な人とそうでない人がいる。これは果たして先天的なものなのか後天的なものなのか僕には分からない。しかし自ら望んで好奇心を旺盛にしようと思ってもなかなかそうはいかない、という経験的事実に鑑みると、やはりそれはある程度まで先天的に備わった資質なのだろうと思う。本当に何にでもすぐ興味を持つことができる人に、僕はいままで何人か出会ってきた。そういう人にとっては専門とか専門外とかそういう区別は存在しない。言うなれば「世界」そのものが彼らにとっての専門なのではないかとすら思う。

 だが、好奇心というのは必ずしも人生のすべての時期において一定であるというわけでもない、というのもまた一つの事実である。それは強まることもあれば、反対に弱まることもある。もちろん強まっていくに越したことはない。世の中には学校を出てしまえばもう勉強しなくていいと思っている人もいるようだが、実際には学校を出てからのほうが勉強するべきことは多い。となれば、歳をとるに従って好奇心が強まっていくのが理想である。しかし現実というのは実にうまい具合にうまくいかないもので、どうやら歳をとればとるほど好奇心は弱まっていく傾向にあるらしい。それは周りの大人を見ていて薄々感じていた。

 好奇心の衰弱。それがいままったくもって他人事ではなくなり、自分自身の喫緊の課題として身に迫ってきているのである。僕はもともと好奇心旺盛なほうではなかった気がするが、それにしても最近の好奇心の貧弱っぷりは以前にも増して拍車がかかっている。まだ齢20歳であるにもかかわらず。中高生の頃は、たとえば音楽鑑賞ひとつとっても、僕の場合はクラシック音楽だったから、いろんな作曲家のいろんな曲を聴こうと頑張っていたし、また同じ曲でもいろんな演奏家による音源をたくさん聴き比べて個人的ベストを決めたりしていた。いま思えばなかなかに体力があったものだと思う。現在では、本当にお気に入りの作曲家の本当にお気に入りの曲を、いつもいつも同じ音源で聴くばかりになってしまっている。まあそれだけ良く聴き込んでいるということだから、それが一概に悪いとは言い切れないが、そういう聴き方をしていると結局のところ世界が広がっていかないのである。

 そうは言っても、持ち前の好奇心の強弱とそこから生まれる興味の範囲というのは実に如何ともしがたい。僕はドイツ音楽は大好きだがフランス音楽はどうもあまり食指が動かない。ついでに最近は器楽・室内楽ばかりで管弦楽曲にはあまり魅力を感じなくなった。それからオペラも正直よく分からない。あと音楽以外だと文学は音楽と同じくらいに愛好しているし、そこから人生の慰めを得ているが、美術に対する気持ちは心からのものではない。むしろ頭からのものである。音楽と文学が好きなのであれば美術にもそれなりに通じていなければ、というある種の義務感みたいなものである。それで美術館には極力通うようにしているが、絵画を見た率直な感想は「あぁ、絵だなぁ」くらいのものである。

 しかし、自分はそういうふうに生まれてきたのだから、と開き直っていてはいつまで経ってもしがない好事家のままである。もちろんそれで一向に構わないのであるが、20歳の若造たるものもっと夢を見て然るべきである。さすがに自分も何か作品を生み出す側の人間になりたいなどと烏滸がましいことを言うつもりは毛頭ないが、せめて自分の好きな分野くらいには他の誰よりも詳しくなりたいものである。そのためにはやはり好奇心を強く持たなければならない。常にアンテナを貼って、自らの趣味的コンフォートゾーンから飛び出して、勇猛果敢にフロンティアへと飛び込んでいく必要がある。

 だがそのためには自分の力だけでは不十分である。というよりまるでだめである。当たり前のことだが、自分にとっては自分という視座が唯一であり、そこから見える景色が全世界である。しかしそれでは広汎な興味など持てるはずもない。だから、他人の力を借りる必要がある。具体的には、まず好奇心旺盛だと思う人を見つけてよく観察するのである。そして観察した結果を自分でも模倣してみる。模倣と反復は何も学問においてだけで通用することではない。生き方そのものでも同様なのだ。まず形から入るのだと言ってもいい。本質はあとからついてくる。

 もうひとつは、他者による介入がもたらすイレギュラー、偶然をあてにすることである。端的に言えば「おすすめ」というものである。私たちは各々が自分の興味関心に従っていろんな物語、音楽、絵画などを探して楽しむ。だから自分だけでは偏りが出る。そこで他者が自分の興味関心に従って選び取ったものをおすすめしてもらうのである。他者というのは当然、私たちにはコントロールできないものである。だからこそ、アルゴリズムによって動かされているウェブ上のおすすめとは違って、本当に思いがけない出会いを提供してくれることがある。僕がおすすめされるのもするのも好きなのはこれが理由である。

 そういうわけでとりとめもなく書いてきたが、一応のまとめとしては、今後は好奇心旺盛な人たちの真似をして生きていかなければなあと思っているわけです。ところがどっこい、この寒い冬は布団にくるまって家に引きこもっているのが何よりもの快感であって、「本物」とやらを見聞きするために家を出ていくというのはなかなかに骨が折れる。だから当分は形だけすら好奇心旺盛にはなれそうにない。ああ南無三。