責任の重さと自由の軽さ――ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

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フィリップ・カウフマン監督『存在の耐えられない軽さ』

 私たちは自分の存在が軽んじられていると感じたときに、一般的には憤慨するものである。それを傲慢であると断じることは容易いが、自分を重んじてほしいという素朴な願望を捨て去ることは難しい。しかし、常に誰かから尊重してもらい続けるのは決して楽なことではない。誰かから尊重してもらうためには、その誰かにとって有益な存在であらなければならないからである。ただ存在しているだけで自分を尊んでくれるのは親くらいなものである。とはいえ子はいずれ親の元を離れていくものだし、親からの承認だけで満足できるほど人間の欲求は浅くないようである。となると、自分が有益な存在であるということを絶えず他者に対して証明し続けなければならなくなる。これは並大抵の努力ではすまない。

 誰からも存在を重んじてもらうことなく、それでいて幸福に過ごすことはできないのだろうか? そもそも、誰かに存在を重んじられなければならないという価値観は絶対的なものなのだろうか? 誰からも存在を認められずひっそりと暮らすことは間違ったことなのだろうか?

 チェコ出身でフランス在住の作家、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』は、軽さと重さという二項対立から人間存在の本質を問いかける小説だ。この作品は映画化もされていて、冒頭の写真はそのワンシーンである。しかしながら、これほど映画化に向いていないと思われる作品も稀である。なぜならこの小説は徹頭徹尾、映像化を拒絶するような文章に満ち溢れているからだ。たとえば冒頭はこんなふうに始まる。

永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて! いったいこの狂った神話は何をいおうとしているのであろうか?」(p.6)

 およそ小説のそれとは思えない書き出しである。「永劫回帰」とか「ニーチェ」とか、苦手な人からすれば本をそっと閉じてしまいかねないワードが連発されている。しかしもちろんこの小説は第一級の「小説」である。そこには主人公がおり、ヒロインがおり、その他の登場人物がおり、彼ら彼女らが悲喜こもごもの物語を織りなしていくのである。

 ではなぜ上のような書き出しにする必要があったか。それは、作者クンデラが小説を単なる物語ではなく哲学を含んだものにしようとしたからである。ニーチェの「永劫回帰」という概念から彼は次のような問題提起をする。つまり、もし世界が永劫に回帰するのであれば、ひとつひとつの行動がもつ意味は極めて重いことになる。その行動が際限なく繰り返されるからである。だからこそニーチェ永劫回帰という考えを「もっとも重い荷物」と呼んだ。だとすれば、そんな「重荷」を背負うことのない一回きりの人生が素晴らしいものだと言えるだろうか。一度過去となってしまったことは深い霧のなかに吸い込まれて永遠に戻ってくることがない。過ぎ去ったことは起こらなかったことも同然。そんな世界が理想だと言えるのだろうか。

 重さと軽さ。これほどミステリアスで多義的な対立は存在しない。重さには代償として責任というものが伴い、そして軽さには恩恵として自由というものが伴う、そういうこともできるだろう。これは冒頭の問題に通ずることである。私たちは、誰かから重んじられているときに、その誰かの期待に応えなければならないという責任をも引き受けなければならない。その反面、そういった責任から自由でいるためには、誰からも軽んじられるということを甘んじて引き受けなければならない。誰からも尊重され、なおかつ自由でいるなどということは幻想にすぎないのである。

 重さ(責任)と軽さ(自由)の二択を迫られたとき、多くの人は前者を選びとるのではないだろうか。確かに責任というのは重荷である。誰かの期待に応えて、自分という存在の有益性を絶えず証明し続けるという努力は私たちを疲弊させる。とはいえ、その努力を続けて成果を出しつづけている限りは、自分は決して吹けば飛んでいってしまうような軽い、価値のない存在ではないのだということを自分に納得させ続けることもできる。一方で、たとえそんな面倒ごとから一切解放されて自由になったとしても、誰からも存在を認められず、まるで風に吹かれてふわふわと漂い続ける羽のように生きていく孤独に耐えけなければならないのである。そして、一度自由を選択した者に対して、社会が注ぐ目は冷たい。やっぱり寂しいからまた仲間にいれてくれと言っても、なかなか許してはくれない。

 つまり、社会通念としてより良い生き方とされているのも、やはり重さ(責任)を引き受けて生きていくほうなのである。それがすなわち「大人」であり、万人がそのようになるべきだと奨励されている。だが、誰もがそのような重さを背負い続けたまま長い人生を歩き通すことができるわけではない。それはその人の弱さゆえかもしれないし、あるいは、社会がそれを許さなかったからかもしれない。ちなみに、ミラン・クンデラは後者である。彼は共産党政権下のチェコスロヴァキアにおいて弾圧され亡命を余儀なくされた。祖国というアイデンティティを失った彼は、おそらく自らを羽のように軽く頼りない存在だと感じたことだろう。

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『存在の耐えられない軽さ』の著者ミラン・クンデラ

 そんなクンデラだからこそ、軽さとともに生きることを余儀なくされた人々に対する視線は温かい。軽さは決して間違ったことではないし、幸福と相容れないものでもない。そのことを示すために、彼はトマーシュとテレザという二人のカップルの美しい人生を私たちに物語ってくれる。トマーシュとテレザの人生は大雑把に言って、「重さ」から「軽さ」へと急転直下していく過程である。そして軽さの極致で二人が目にしたものは何だったのか。

 トマーシュという男は外科医をやっている。無類の女好きでとっかえひっかえいろんな女とやりまくるが、たとえ「やって」も「寝る」ことはしない。つまり、一緒のベッドで睡眠をとることはしない。かつて結婚生活に失敗したことのトラウマからそんな変な掟を自らに課している。そんなトマーシュのもとにテレザという女が現れる。テレザは田舎で生まれ、ろくでもない母親(今で言う毒親)にとことん抑圧されて育った。テレザとやったトマーシュは、自己の掟に反してテレザと一緒に寝てしまう。その後、テレザがトマーシュのアパートに突然転がり込んでくる。このときを境に二人の「重さ」から出発し「軽さ」へと逢着する旅が始まる。

 あるとき、トマーシュは雑誌に投稿した『オイディプス王』に関する文章が原因で共産党政権に目をつけられるようになる。危険を回避するために彼はテレザとともにスイスのチューリッヒへと逃げる。しかしチューリッヒで浮気をしたトマーシュに嫌気が差したテレザは単身プラハへと舞い戻る。ここでトマーシュは厳しい選択を迫られる。チューリッヒに残るか、あるいは、テレザを追ってプラハへ戻るか。チューリッヒに残れば安全だし、外科医の仕事を続けられる。しかし、プラハに戻れば安全は保証されないし、当然、外科医の仕事は失うことになる。トマーシュにとって外科医の仕事とはまさに天職で、かけがえのないものだった。だがトマーシュは、天職と安全を失ってでもテレザを追うことにした。

 物語の最後、プラハで暮らしていかれなくなった二人はとある田舎へと流れ着く。そこでトマーシュはトラック運転手という外科医とはかけ離れた職に就く。テレザは、浮気などしようと思ってもできない田舎でトマーシュと二人きりで暮らすことにこれまでにない幸福を感じていた。しかしながら同時に、トマーシュを外科医としての都会での暮らしからトラック運転手としての田舎での暮らしにまで引きずり下ろしてしまったという罪悪感に苛まれてもいた(「神よ、トマーシュが彼女を愛していると、テレザが信ずるためにここまで来る必要があったであろうか?」p.390)。そのことを打ち明けるテレザに、トマーシュはこう答えた。

 「『トマーシュ、あなたの人生で出会った不運はみんな私のせいなの。私のせいで、あなたはこんなところまで来てしまったの。こんな低いところに、これ以上行けない低いところに』(中略)『テレザ』と、トマーシュはいった。『僕がここで幸福なことに気がつかないのかい?』『あなたの使命は手術をすることよ』『テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ』彼の正直な声を疑う理由はなかった。」(太字は引用者:p.394)

 確かに、ア・プリオリな(先天的に与えられた)使命などというものは人間には存在しないのかもしれない。少なくとも大半の「凡人」にはそんなものはないだろう。だからこそ人間という存在は「耐えられない」ほどに「軽い」。誰かにとって有益な存在であれば一時的に「重い」存在になれるかもしれない。だがそれはあくまで一時的なことで本質的なことではない。本質的には、私たち人間はみんな「存在の耐えられない軽さ」とともに生きることを宿命づけられている。「人間は自由という刑に処せられている(サルトル)」のである。しかしだからこそ、私たちは使命などという「ばかげた」ものに縛られることなく自由でいられる。自由に自分の人生を生き、そして自由に幸福になることができる。

 僕は人間という存在の「軽さ」がこれ以上に美しく描かれている小説を他に知らない。ちなみに、トマーシュが幸福だなどと言えるのは愛する女性がいるからだ、俺には(私には)いないぞ、という人もいるかもしれない。そういう人こそぜひ『存在の耐えられない軽さ』を読んでみてほしい。「両親を、夫を、愛を、祖国を」裏切って、この世の中に本当にたった一人で生きる「存在の耐えられない軽さ」に到達する女性がこの上なく美しく描かれているから(彼女の人生は幸福ではないかもしれないが、少なくとも美しくはある)。やっぱりこの小説はすごい。クンデラはすごい。

※本文中の引用はすべて以下の文庫本による。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 

※ちなみに新訳もある。僕は旧訳のほうが好きだが、読みやすさでは新訳が勝る。

存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)

存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)