合理的な判断――フェデリコ・フェリーニ『道』

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フェデリコ・フェリーニ監督『道』

 言わずと知れた名作、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』である。いや、いまどきフェリーニ監督といえば、もはや「知る人ぞ知る」監督になっているのかもしれない。少なくとも、僕と同世代の若者でフェリーニを知っている人はそんなに多くないし、作品を観たことがある人となるとさらに限られている。それ自体は別に良いこととも悪いこととも思わないが、映画のみならず文学にしても音楽にしても、いわゆる「クラシック(あるいは古典)」と呼ばれるものは単に堅苦しく古臭いだけのものではなく、とても豊穣な内容を持っておりときには現代から見てもハッとさせられるほど前衛的なものもあるのだから、それらを一切度外視してしまうのはもったいないとは思う。

 この映画のあらすじはごく大雑把にまとめるとこんなところである。

 ヒロインのジェルソミーナ(僕はこの名前がいつまでたっても覚えられない)は、貧乏な家に生まれた長女で、あるとき「口減らし」のために旅芸人のザンパノという男のもとへ売られる。ジェルソミーナはザンパノにこき使われ、また鞭で打たれながら芸を仕込まれる。ザンパノの野蛮な人柄に嫌気が差したジェルソミーナは脱走を試みるも連れ戻されてしまう。

 そんなときに彼女はザンパノと共に加わったサーカス団でイル・マットと呼ばれる別の旅芸人と出会う。イル・マットはザンパノを度々からかい怒らせる。激怒したザンパノはナイフを手に取りイル・マットに襲いかかり、警察に捕まってしまう。ザンパノから解放されたジェルソミーナはサーカス団から一緒に来るように誘いを受けるものの、「不器量で料理もできない自分が生きる意味が分からない」とイル・マットに嘆く。そんなジェルソミーナに、イル・マットは「どんなものでも何かの役に立っている」「ザンパノがお前を捨てないのはお前を必要としているからだ」と励ます。彼の助言に元気づけられたジェルソミーナは再びザンパノのもとへと帰っていく。

 二人はしばらく巡業した後、偶然イル・マットと再会する。例のごとくイル・マットにからかわれたザンパノは彼を殴って死なせてしまう。その死を目撃したジェルソミーナは精神的にダメージを受け、うわ言を発しまともに芸ができなくなる。そんな彼女に困惑したザンパノはあるとき彼女が寝ている隙を見て置き去りにする。数年後、サーカス団の一員としてやってきた村でザンパノはかつてジェルソミーナがトランペットで吹いていたメロディーを歌っている女と出会う。そしてその女から、ジェルソミーナが死んだことを告げられる。ザンパノはショックを受け、失ったものの大きさと自らの孤独の深さに絶望し、海辺で慟哭する。

 結局かなり長くなってしまったし、なんだか要領を得ない分かりづらいあらすじになってしまった。まあ、よく分からんという人はぜひ自分で見てほしい。それか、もっと分かりやすいあらすじを書いている人がネットにたくさんいらっしゃるのでそちらを参照してほしい。

 さて、この映画は、実に暗くて重い映画である。まずヒロインの境遇があまりにも悲惨だし、「どんなものでも何かの役に立っている」という温かい言葉をかけてもらってハッピーエンドへ向かうかと思いきやジェルソミーナとザンパノの関係はあっけなく破滅する。ラストシーンもあまりに救いようがない。大体、ザンパノという男がいくらなんでも野蛮すぎる。酒と女が大好きで、すぐにキレて殴りかかる。ジェルソミーナの献身にまったく気づく様子もなく歩み寄ろうともしない。で、一度お縄になっているにもかからわず性懲りもなくイル・マットをぶん殴り殺害してしまう。挙句の果てにその死体を遺棄して逃げる。そして最終的にはあれだけ尽くしてくれたジェルソミーナを見捨てる始末である。まあ人非人もいいところである。

 しかし、物語を鑑賞するときに是非避けたいと思うのが、登場人物を「客観的に」眺めて「合理的に」裁いてしまうことである。1年前の自分自身の行動を振り返ってみたときに、はじめて客観的かつ合理的に判断することができて、なんて馬鹿なことをしたのだろうか、などと反省してみることがよくある。自分のことだと1年かかってようやくそこに至るかあるいは一生至らないこともあるのだが、他人のこととなるとどういうことだか私たちはいとも簡単に客観的かつ合理的に判断することができる。まあ、それが「客観」「合理」の本質とも言えるけれど。さらにいえば、物語の登場人物というのは他人も他人、自分の人生とは一切関係のない架空の人物に過ぎない。こうなると私たちはもう神にも等しい判断力を発揮することができる。コイツ、なんでこんな馬鹿げたことばっかりするんだろう、もっと賢く生きろよ、なんて言ってみたり。

 でも、そんなふうに粋がって登場人物を批判することに意味があるだろうか。よく、小説だの映画だのマンガだのの物語を読む意味を問われて、「他人の人生を追体験できる」ということを挙げる人がいる。これは言い換えれば、「他人の気持ちになって考えることができるようになる」ということである。もちろん、ただ読んだり観たりしていればそうなるわけではない。自分のもてる想像力を最大限に動員して、「他人の気持ちになって考える」ことをしなければいけない。

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ザンパノ

 そこに気をつけて考えれば、ザンパノという男のことも大いに理解できる。この男は旅芸人を生業とする男で、この稼業がうまくいかなければ生活は立ち行かなくなる。となれば、稼業の成功に直結する自分の助手を厳しく訓練するのは当然のことである。そして、何度脅かしても散々からかってくる鬱陶しいやつについつい手が出てしまうのもまた自然なことだろう。先ほど、一度お縄になったくせに性懲りもなくと言ったが、それはイル・マットにしても同じことである。一度ナイフで殺されかかっているにもかかわらずまたぞろ同じやつをからかうとか、ちょっと常軌を逸している。だがこれも、イル・マット本人が言うように「なぜだか知らないがからかいたくなる」奴って、実際にいるんだよな。自分も振り返ってみたらそういう奴っていつでもどこでも一人はいたし、そして自分自身そういう奴はからかいまくっていた。自分が殺害した死体を遺棄して逃げちゃうのはさすがにマズイと思うが、これだって自分が同様の状況に陥ったら同じことをしないとは言い切れない。

 こういう姿勢をもって改めて鑑賞してみると、ザンパノがイル・マットを殺しちゃってどうしようもなくなって死体を遺棄するところとか、精神がおかしくなっちゃったジェルソミーナを放置して去っていくところとか、アンソニー・クインの名演もあってかなり迫真のシーンになっているのが分かる。ザンパノはアホな奴だが、アホなりに葛藤してできる限り「合理的に」判断していったのだ。そうやってたどり着いた結末だからこそ、よりいっそう悲惨さが際立つのであろう。

 そして、私たちの人生を考えてみてもまったく同じであるということに気づく。さすがにからかってきたあいてをぶん殴って殺してしまったり、頭がおかしくなってしまった女房をほったらかして逃亡するようなことはそうそうあることではないが、私たちの人生も常に選択の連続である。一つ一つはたいてい、取るに足らない小さな選択として私たちの目の前に現れる、だが、その小さな選択がいずれ甚大な結果に繋がるということもある。恐ろしいのは、どれが本当に「小さな」選択で「大きな」選択なのかということは、たいてい結果が出るまで分からないということだ。自分には手に負えないほど「大きな」選択だと思っていたことが実はそんなに頭を抱えるほどのことではなかったり、その逆に、熟慮することもなく適当に決めてしまった選択がやがて自分の人生を大きく左右することになるかもしれない。そんな一つ一つの選択を、私たちは本当に「合理的に」行うことができているのだろうか。

 僕はザンパノのように野蛮ではないが、たぶんアホさという点では似たり寄ったりだと思う。そんなアホな僕が、アホなりに「合理的に」決断していって進んでいく人生。さて、たどり着くのはザンパノの泣いた海辺か、それとも……