子どもに与えられる最良のものは「思い出」

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 子どものころの思い出というのは、子どものころにしか作れない。当たり前だけど。

 でも、これはすごく重要なことだ。なぜなら子ども時代というのは驚くほどあっという間に過ぎるから。何歳まで子どもとするかという問題はあるが、一般的な感覚から言って「子どものころの思い出」といえば、まあせいぜい小学校卒業までくらいになるんじゃなかろうか。そして物心ついてからじゃないと思いではないから、だいたい6歳~12歳といったところだろうか。実に短い。

 ほかに子どもに与えられるものといえば、たとえばお金や物になる。お金はもちろん大事だ。お小遣いとかそういう手渡しのものだけでなく、学費など子どものために使うお金も含めて。でも、有り余るほどのお金を与えられれば子どもは幸せかといえば、そんなことはない。子どもにとってお金の使いみちなんてたかが知れている。そして、必要なお金の量もまた然り。

 そして、これは物もそうだが、お金なんてものは大人になってから頑張れば自分でいくらでも稼げるのである。いやまあ、いくらでもとはいかないが、嫌でも稼がなくちゃいけない。お金を稼げば当然、物だって買える。

 だが、いくらお金を積み重ねたところで、子どものころの思い出・経験は絶対に買えやしないのだ。

 有名人のインタビューなんかで、「○○(職業)になろうと思ったきっかけ」をきかれて、「子どものころにその職業の人が働いているのを見てかっこいいと思ったから」という答えをよく見かける。それを見るたびに考える。もしこの人が、その経験をしなかったらいったいどうなっていたのだろう、と。

 たとえば野球場で活躍する選手を見て野球を始めるとか、そういうのはけっこうありふれている。だがこうした経験は決して子どもひとりでできるものではない。親が野球場に連れて行ってあげて初めて成り立つのである。だから、できるだけいろいろな場所に連れて行ってあげて、いろいろな人やものを見る経験をさせてあげることは将来のためにもなるのだ。

 もちろん職業選択においてだけじゃなくて、子どものころの思い出というのは、単純に生きていく上での大きな財産になる。大人になるにつれて、なんの屈託もなく物事をめいっぱい楽しむということは難しくなっていく。変にすれてしまっていくということもあれば、両手に余る悩みを抱えているせいでなにかに夢中になれないということもある。それに比べて、子どものころの思い出の、なんと純粋に光り輝いていることか。

 といいつつ、僕自身にはあまり子どものころの大切な思い出というものはない。子どものころを思い出して浮かび上がってくるのは、あれが嫌だったこれが嫌だったということばかりだ。まあこれは自分の性格のせいもあるから、べつに親に恨み言をいいたいわけではない。

 そして僕は親になるつもりはない、というか絶対にならないと決めているので、いつか子どもができたらいっぱい楽しい思い出を作ってあげようとかそういうハートウォーミングな話でもない。

 ただ、仕事(アルバイト)柄、親子連れの客をよく見ていてふと思ったのだ。こうして親に連れられてここにやってきたことが、やがて思い出になって、ふとしたときに思い返したりしてくれるのだろうか、と。もしそうだとすれば、自分のやっていることも少しは価値があるかな、なんて。柄にもなく。

「孤独を癒やしてくれるのは他人だけ」

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 いつものようにインターネットを徘徊していると、「孤独を癒やしてくれるのは他人だけ」という、とても素敵な言葉に出会った。

 一見すると人とのふれあいを大切にするハートウォーミングな言葉に思えるが、ここでいう「他人」とは「自分以外の人」という意味ではない。「自分以外の人」のうち、家族・友人・恋人などの特に親しい人、いわゆる「身内」を除いた、本当に見ず知らずの人を「他人」といっているのである。

 そうすると、この「孤独を癒してくれるのは他人だけ」という言葉は一挙に不可解なものとなる。どうして、見ず知らずの「真っ赤な」他人に、孤独を癒してもらうことができるのか、そう思う人が大半だろう。

 しかし、僕はなぜかこの言葉に強く共感を覚えた。

 ちなみに、この言葉は Yahoo!知恵袋で見かけた、「彼女がいるのに寂しいと感じるのはなぜなのか」という趣旨の質問に対する回答のなかで使われていた。いわく、「孤独を癒してくれるのは他人だけ」で、「あなたにとって彼女はもう『他人』ではなく『身内』になったということではないか」ということであった。

 僕は、この論理的には矛盾しているようにも思える回答に、とても納得した。「身内」と呼べるような他者がいるのにもかかわらず、なぜ「孤独」を感じるのか、という疑問を抱く人もいるだろう。だが、僕は自分の経験的にこの回答がいわんとしていることを理解することができた。

 僕も、両親は健在だし、少ないが友人もいて、恋人もいる。にもかかわらず、やり場のない孤独感を抱えてふさぎこむときがある。そんなとき、その孤独を打ち破ってくれたのは意外と、顔も名前も知らない「他人」だったりした。

 たとえば、自室に一人でこもっている寂しさに耐えかねて外出した先で、ふらっと入った店の店主や従業員と思いがけなく意気投合して話に花が咲いたあと、ふと気がつくと、さっきまでとは打って変わって、気持ちがすかっと晴れ渡っていたというようなことが何度かある。お互いに、名前も告げずに別れて、きっと二度と会うこともないだろうにもかかわらず。

 こういう不思議な体験があったからこそ、「孤独を癒してくれるのは他人だけ」という言葉にも妙にすんなりと得心がいったのだろう。もちろん、「他人だけ」というのは誇張した言い方になるが、「他人」にしか癒すことのできない種類の孤独があるというのは確かだと思う。

 むしろ、無駄にだらだらと時間だけ積み重ねてけっきょく実りの少なかった人間関係よりも、長い人生からすればすれ違いざまに会釈を交わしに過ぎないような、ほんのひとときの交流のほうが、やけに印象に残って忘れられなかったりする。

 思うに、そのような交流が私たちにかすかな希望を感じさせるのは、それが可能性をほのめかしているからではないだろうか。つまり、この世界にはまだまだ私の知らない世界や人が存在して、勇気を出して手を伸ばしさえすれば、いつでもそうした新たな世界と触れ合うことができるのだということを、思い出させてくれるのだ。

 だから僕は、どんなに一瞬の付き合いであっても、決して軽んじたりはしない。

何もせずに寝続けるのも幸せのひとつのかたちなのだろう

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 最近ひまなので寝てばかりいる。

 いま僕は大学3回生で、現時点で取得することのできる単位はすべて取り終えてしまった。なので学校には週に2回しか行かない。そして授業は1日1コマだけである。アルバイトもだいたい週2程度しかいまは入れていないので、週のうち3日は丸一日なにもないというような状態である。

 秋晴れが続いているので写真を撮りにいくのも良いのだが、ここのところどうにも体調がすぐれないので、どうしても家でおとなしくしていざるを得なかった。で、家でできることといったら読書か映画鑑賞くらいのものだが、これらもいまひとつやる気が起きない。

 そういうわけでずっと寝ている。ずっと寝ていると言っても、もちろん一日じゅう睡眠状態にあるわけではなくて、ベッドでゴロゴロしながらネットをしたり音楽を聞いたりして時間を潰しているのである。

 べつにそれでも一向に構わないわけだが、あまりにもダラダラ過ごしているとなんとなく罪悪感が湧いてくるのである。

 もっと有意義な時間の使い方をしなければならないのではないか。

 この時間を有効活用してスキルアップしなければならないのではないか。

 人生の夏休みと言われている大学生活をこんなふうに過ごしていいのか。

 もっと外にでて目一杯楽しいことをしたりするべきではないのか。

 などとその思いはさまざまだが、いずれにせよ、せっかく有り余っている時間をゴロゴロして潰してしまうのは良くないことだと考えている。

 しかしよく考えてみると、それらの考えはほんとうに自分の心の底から湧き上がってきているものではない気がする。どちらかといえば、世間的にそうであるべきとされている考え方をなぞっているだけなのではないか。

 余った時間はなにか「有意義」で「有効」なことに使わなければならない。そして絶えず成長しなければならない。いつもはしゃいで楽しんでいなければならない。ついついそんなふうに考えてしまう。

 もちろん、それもひとつの時間の使い方ではあるし、いつもそんなふうにやれるならそれに越したことはないかもしれない。だが、とくに僕のように音が怠け者で生まれつき向上心が欠落している人間には、常にそうした態度を貫くのは難しい。

 そのうちやる気も出てくるだろうし、やらなければならないこと、やる価値のあることもやってくるだろう。だからいまは体力を養っているのだ、とかそれくらいに考えておいて、とにかく時間のある限り寝続けるということも、立派な過ごし方なんではないだろうか。少なくとも僕はそう考えて今日も明日も布団にこもる。

理解されることを諦めて音楽を聞きながら孤独に沈む

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 家族も、友人も、恋人もいるのに、孤独でたまらない。

 こんなことを言うと村上春樹の小説の主人公にでもなろうとしているのかと思われそうだ。村上アンチの人は、彼の小説の主人公は女には困っていないくせにいっちょ前に孤独ぶるのが鼻につくと批判したりする。

 しかし、そういう人は本当にそれがおかしなことだと思っているのだろうか。友人や恋人さえいれば人は孤独ではなくなると信じているのだろうか。あるいは、実際に自分は友人や恋人がいるから決して孤独ではないと断言できるのだろうか。だとすれば非常にうらやましいなと思う。

 僕の場合はむしろ、孤独から逃れようとして人と交わろうとすると、大抵の場合は、かえって自分が孤独であることを再認識し、かつそこから抜け出すことが絶望的であることを思い知って、落胆してしまう。

 どうしても他人に理解してもらいたい感情というのは、見方を変えれば、どうあれ他人には理解してもらえない感情だ。なぜなら、すんなり他人に理解してもらえるような感情でいちいち思い悩んだりはしないからだ。やすやすとは理解してもらえないからこそ、それが静かに自分の心の底に沈殿していって、次第に無視できなくなってくるのだ。

 そして、この人ならひょっとしたら理解してもらえるかもしれないと勇気を出して打ち明けて、なんだか煮え切らないような困惑したような反応が帰ってきたときほど、深い孤独感に襲われるときはない。そんな経験を重ねるうちに、やがて自分の中の複雑な感情を他人に吐露して理解してもらおうしなくなる。

 とはいえ、それで問題が解決するわけではもちろんなく、自分ひとりで抱えて生きていくには苦しい感情がいっさい処理されることなくずんずんと積もっていくことになる。最近ことさらその堆積を意識するようになってきた。

 かつてあれほど熱心に語り合った友人と久しぶりに会って言葉を交わしても、なんだか薄っぺらい上辺の話だけでから騒ぎして、とぼとぼと家路をたどる背中がとても寒い。別々の道を歩んできた時間が長くなればなるほど、お互いのことを理解しにくくなっていくのだ。

 そろそろ僕は、他人に理解を求めるのを諦めなければならない時期に入ってきたのだろうか。それとも、もっと他人に理解してもらえるように、自己を客観的に分析し、それを明快な言葉で表現する技術を磨かなければならないということだろうか。

 きっと後者なのだろうし、それをがむしゃらにやっていけば、ひょっとするとなにかを成し遂げることにもつながっていくのかもしれない。しかし、いまの僕にはそれができそうもない。ただいろんなことを諦めて、唯一僕の心に染み渡り癒やしてくれる音楽を聞きながら、孤独のより深い底の方へとゆっくり沈み落ちていくばかりだ。

伝えたいことは伝えられないし、伝えられることはつまらないし

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 ここ数ヶ月くらいずっと憂鬱である。そしてその原因がわからない。いまの自分は仕事(アルバイト)も楽しくて、時間はたっぷりあるし、お金もそれなりにある。友達もいて恋人もいる。にもかかわらず、心が何かを渇望している。常に満たされない思いに苛まれている。

 よもや自分がこんなに贅沢な悩みを抱える日がこようとは思ってもみなかった。今年はいろんなことがびっくりするくらいうまくいって、初めて人生が好転したと思えるような年だった。はずなのに、いまこうして今年もあと2ヶ月になって、振り返ってみると何一つ実りがあったような気がしない。

 こうして文章を書いているのもほんとうはいやいやである。僕はいままでたしかに文章を書くことでさまざまな葛藤をどうにか自分という存在の一部として組み込んできた。その経験則に基づいて、今回も頭を抱えながら無理矢理にでも言葉を連ねてみている。

 しかし、以前はもっと自分のなかの曖昧模糊とした感情をたやすく言語化できていたような気がする。さして行き詰まることなくすらすらと言葉を紡げていたはず。それがだんだんと、頭の中でイメージとして表現することはできてもそれを言葉にするのが困難になってきた。

 それはひとつには、僕があくまでひとりの人間として、僕ひとりの人生を僕ひとりで歩んできて、その結果たどり着いた現状を表現する言葉が、万人のための言語のなかにはないということではないかと思う。けれど、これも自分で自分が何を言っているのかわからない。

 頭の中にはこんなイメージがある。たとえば、真夜中にふと思い立って車を走らせる。向かったのは夜の帳が下りた港。周りには灯りひとつなく、人っ子一人いない。ただ闇の向こうから寄せては返す単調な波の音がまるで手招きしているかのように不気味に聞こえるだけ。そこで堤防に腰を下ろす。腕で自分の身体を前に突き出してしまえば最後、誰にも気づかれずに海に転落して溺れ死ぬ。そんな状態のまま何時間もぼんやりと暗闇を見つめ続ける。

 このイメージを頭の中で思い描くとき、僕の気持ちはすこし和らぐ。なぜなのかはさっぱりわからない。イメージの中での自殺みたいなものかもしれない。完全な無に抱かれ、悩みも苦しみも何もかも手放してただぼんやりと存在していたいという憧れかもしれない。

 やっぱりいちばん伝えたいことはどうしても伝えられない。かといって、伝わることばかり話そうとしても、伝えられることはどうにもつまらない。まったくもって八方塞がりで、どうにもならない。だから眠る。眠っている間は何も考えずに済む。

なんにも積み上げてこなかったらしょうもない人間になっちゃった

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 タイトルのとおり。

 僕はいまピアノをやっている。大学に入ったときに再開したのだ。再開したというのは、むかし幼稚園のときから小学校4年生までやっていたからである。とはいえ、自分がやりたいと言い出したくせに始めたらやる気をなくす子供特有のアレで、練習はほとんどまじめにやっていなかった記憶がある。

 そういうわけで、いまも腕前はずぶの素人に毛が生えたようなものである。弾きたい曲はやまほどあるのに、弾ける曲はほとんどない。楽譜もあまり読めないので、譜読みに時間がかかりレパートリーを増やすのも一苦労というありさま。

 ピアノ・リサイタルなどに行くたびに、たいていは刺激をもらいモチベーションになるのだが、反対にやる気を失ってしまうこともある。あまりのうまさに圧倒されて、ここまでうまくなれないのなら練習しても仕方ないのではないかと思ってしまう。もともと聴くのが好きで始めたのでなおさらそう思う。自分のへたくそなピアノを自分で聴いていて楽しいと思えない。

 もちろん、子供の頃からまじめに練習して長年続けたからといってプロ並みにうまくなるわけではない。むしろ、ならない人のほうが多い。それは当然である。そして、仮に長年続けていてうまくなったとしても、僕の性格を考慮すれば、もっとうまくなりたいと感じ続け満足することはなかったろう。

 それでも、ピアノに限らず楽器が上手な人や、あるいは絵が上手な人などを見ていると、とてもうらやましい気持ちになると同時に、いままでの人生でなんにも積み上げてこずにしょうもない人間に成り果てた自分のみじめさにため息が出る。

 いまからでも遅くないという人もいるかもしれないが、楽器に関しては大いに遅いのである。とくにピアノは幼少期の基礎練習が非常にモノを言う楽器なので、いくら若いといえども僕くらいの年齢からだと厳しいものがある。それに、子供のころみたいに長い時間を練習に費やすこともできない。学校やらバイトやらに時間をとられるし、また就職までの残された時間も少ない。

 限られた時間でどこまで上手になれるのかを考えると、やはり練習する気が失せてしまう。中途半端なところまでしかいけないのであれば、最初からやらないほうが失望もしないし時間も無駄にならない。どうしてもそう思ってしまう。

 まあ、毎日コツコツなにかをやっている人や、すでになにかしらの技能を持っている人からすれば、うじうじした言い訳に聞こえるのだろうけれど、僕は何をやるにしてもこういう気持ちを拭えない。ほんとうにいままでなにもやってこなかった。勉強もろくにしてこなかったし、かといって熱中していた趣味もない。これにかんする知識だけは負けないとかいうのもない。でも、意外とそういう人のほうが多いのかもな。わからんけど。

 いまは、とりあえず写真を頑張ってみようと思っている。写真はいいね。始めるのはとても簡単。いまはシャッターを切るだけできれいに撮れるカメラがあるから。ただし奥はどこまでも深い。ただ撮るだけじゃなくて、自分なりの意図を持って、それを実現させるためにはいろいろな知識や技術が必要になる。そして運の要素もある。シャッターチャンスに恵まれなければ、どれだけ良い機材を持って高い技術を有していてもどうにもならない。

 それから、僕の場合はモノクロフィルムでよく撮るから、暗室作業という楽しみもある。僕はまだ自分でプリントしたことはないけれど、今度暗室ワークショップに参加する予定である。ずっとやってみたかったので、いまからすごく楽しみにしている。撮影から現像、プリントまで自分でやれるところがモノクロフィルム写真の醍醐味だと思うから、それらすべてをできるところまで極めてみたいと思う。

 ピアノはどうしようかな。そんなに技術が必要じゃないゆったりめの曲をぼちぼちやっていこうかな。速くて派手な曲はかっこいいから弾きたいけど、やっぱり練習が大変だし、人前で弾くときなどは緊張してしまう。これまでは難しい曲にも挑戦してきたけど、今後はあまり難しくない曲を無理せずやっていくのが良いかもしれない。

 という独り言でした。オチはないです。文章もうまくなりたいね。

自分の写真の善し悪しは自分で決める

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 SNSに熱中する原動力は承認欲求だとよく言われる。

 だがいったい「何を」「誰に」承認されようとしているのかが僕には謎だった。日常生活のなんでもない一コマを写真にしてInstagramにアップロードして、それで「いいね」を押してもらうことが目的なのであれば、自分の日常を友人などに「承認」してもらいたいということなのだろう。

 しかし、たとえば仕事の成果を認められたいというのならばともかく、なぜ日常を他人に承認されなければいけないのかがさっぱりわからない。そんなふうにずっと考えていたのだけれど、もしかするとそういう人たちは自分に自信がないのかもしれないなと思うようになった。

 自分が過ごしている日常が有意義で充実したものであるという自覚を持てないのだ。だから多くの人に「いいね」を押してもらう必要がある。これだけの人が「いいね」と思っているのだから、他者から羨まれるくらいには魅力的な生活なのだと自分を納得させているのかもしれない。それならある程度理解できる。

 とはいえ、自分はまったくそういうふうには考えない。

 僕もこのところ写真に熱を上げている。だが撮った写真をSNSに上げることはない(そもそもSNSやってないんだけど)。たまに友人に見てもらうことはあるけれど、基本的には自分だけで眺めて楽しんでいる。

 そして、自分の写真はそれなりに良いものだと自分では思っている。

 その評価はひょっとすると誤っているかもしれない。客観的にはおかしいところだらけの素人写真に過ぎないのかもしれない(多分そうだろう)。だが、僕にとって写真とは極めて個人的で主観的な営みなので、客観的な評価などそもそも必要としていない。

 写真を撮った場所まで出かけていく過程、その日の天気や気温や湿度、その時期に考えていたこと、なぜその情景を写真に収めようと思ったのか、などなど、僕にしかわからない記憶や情報が、一枚一枚の写真にかけがえのない価値を与えている。

 だから、僕は他人に写真を見せようとはあまり思わない(だれかと共有した瞬間の写真はその限りでない)。こう言うと、フォトコンテストや写真展などを否定しているように聞こえるかもしれないが、もちろんそうではない。コンテストや写真展で評価される写真は「作品」であり「芸術」だから、そこには主観を超えた美が存在していなけれればならない。そういう写真は極稀だが存在する。

 しかし大半は「芸術」の域には達していない写真ばかりである。僕の写真もそうだ。だが客観的な価値がそこにないとしても、主観的な価値がなくなるわけではない。コンテストで受賞できないとしても、写真展で来場者に見向きもされないとしても、「僕だけにとって」かけがえのない写真というものがある。そして僕は、あくまでもそのような「僕だけのための」写真を撮れればいいと思っている。

 そして日常というものは、写真以上に主観的なものだ。ほとんどの人の日常は、他人にとっては極めてどうでもいいものだというのが実際である。だが、まさにその日常を営んでいる人にとっては、一瞬一瞬がとても貴重なものだ。それは他者から与えられる「いいね」とはまったく関係がないところに存在する絶対的な価値だ。

 他者から「いいね」と言ってもらえなければ安心できない人は、自分の日常を軽んじてしまっているような気がする。なぜ自分自身の日常を自分自身で肯定できないのか。他者に評価を委ねてしまっているのか。

 「自分らしさ」を追求するのは良いことだと思うけれど、その場所がSNSだというのはどうだろうか。他者から承認されなければならない「自分らしさ」とはいったいなんなのだろうか。僕にはそれが偽りのもののように思えてならない。

 僕は、自分の日常と、それを収めた写真の良し悪しは自分で決めたい。