正月遊びがスマブラでも別にいいじゃない

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 今日、知り合いの年配の方と話していたら、「近ごろは子どもが正月遊びをしているのを見ない、そもそも知らないのではないか」と仰った。僕が「そうですねえ、僕は凧あげとか羽根つきとかしましたけど、最近は見ませんね」と返すと、その方は続けて、「そもそも外で子どもが遊んでいるのをあまり見かけなくなった。家でゲームばっかりしてるから……」という感じで憂慮しておられた。

 僕は年配の方と話すときは、とりあえず「そうですねえ……」としか言わないようにしている。だから今日も反論しなかったが、内心は言いたいことでいっぱいだった。

 ひとつには、子どもが正月遊びを知らないのは、子ども自身の罪ではないということ。いまの時代、普通に生きていたら凧あげや羽根つきを知らずにいても不思議ではない。それが「知るべきこと」なのであれば、大人が教えてあげれば良いのであって、それを怠って、「近ごろの子どもは何も知らない」などと批判するのは虫が好かない。

 「世の中にはゲームのほかにもいろいろと面白い遊びがあるんだぞ、ほら、あれも、これも」と教えてやれば、思った以上に子どもは興味を示したりするものである。そもそも、子どもというのは自分がはじめて知ったものには興味を持ちやすいものなのだから。もちろん、「こんなのつまらないよ」と突っぱねられるかもしれないが。まあ、それは仕方ない。

 それから、外で遊んでいる子どもを見かけなくなったというが、これも時代を考えてほしい。いまこの国は超が3つか4つ付くほどの少子高齢化社会である。近ごろは外で遊んでいる子どもを見かけなくなったと文句を言うが、こっちとしたら、近ごろは外に出てもノロノロ歩いている邪魔な老人ばっかりだ、と文句を言いたくなるものである。

 それはともかく、子ども自体の数が減っているうえに、昔に比べたら遊べる場所も減っているということもある。僕の母親によると、昔の子どもはみんな道路で元気いっぱい遊んでいたそうである。しかしいまでは、道路というのは自動車が我が物顔でひとりじめして爆走する場所になってしまった。そんなところで遊んでいたら危なくて仕方ない。それから、空き地という場所もいつのまにかなくなってしまった。いや、あるにはあるが、一歩も足を踏み入れられないように厳重に封鎖されてしまっている。いやはや……

 最後に、みんなで集まって遊ぶのがゲームで何があかんのや、とも言いたい。媒介が正月遊びであろうと、ゲームであろうと、それによってみんなが集まって楽しめるのならば同様にすばらしいことではないのか。正月遊びだって別に高尚なものではなく、単なる遊びで、ちょっと歴史があるというだけでありがたがられているに過ぎない。本質的には、ゲームと何ら変わらないものだ。

 時代が変われば遊びも変わっていく。でも、そこに集まって楽しんでいる人たちの気持ちや笑顔は変わらない。何で遊ぶのかを強制されて、人々の気持ちや笑顔が損なわれていくなんて、そんな愚かしいことはない。

 これは世代間にだけではなくて、同世代においても言えることだ。自分とは違う趣味の人たちを指して、「あんなの何が楽しいんだ、くだらない」などと言う人がまれにいるが、それも無粋というものだ。そこに集まっている人たちが「実際に」楽しそうにしているという「事実」だけが重要なのであって、外野の人間がそれをどう思うかは重要ではない(もちろん、社会に迷惑をかけるような遊びは批判されて然るべきだが)。

 去年の年末、高校時代の同級生たちが僕の家に集まって忘年会をした。みんなで鍋を囲んで美味しいお肉でしゃぶしゃぶをしたあと、大乱闘スマッシュブラザーズSpecialをプレイした。最近のスマブラはすごくて、なんと8人まで対戦できる。だから集まった6人みんなで大乱闘をした。勝った人も負けた人もみんな心の底から楽しそうに笑っていた。高校生だったあのころに戻ったような気がした。それでいいんだ。

2018年に撮った写真

 いつも読んでいる写真ブログの人たちがやっているので、僕もやってみる。写真をはじめて半年以上経ったけど、うまくなったという感じはしない。もちろん、最初の一本に比べればマシにはなっているんだろうけど。

 基本的にはどれもストリートフォトグラフィーの出来損ないみたいな写真。それが撮りたかったというよりも、それしか撮れなかった。インスタ映えするようなキラキラな写真も、だれもがハッとするような絶景写真も、目を見張るような美しい女性のポートレートも撮れないので、だれの許可もいらないストリートで延々とシャッターを切っている。

 だれに頼まれたわけでもない。だれにも褒められやしない。だんだんとなんでこんなことやっているのかなあという気持ちが湧いてくる。単に飽きているだけなのかもしれない。でも、褒められるために撮るというのも性に合わない。とはいえ、自己満足でやるにしてはやけにカネがかかる。本当に好きなのかな、写真。わからなくなってきた。

 べつに好きである必要もないんだけどね。いやならやめればいい。でも、写真を勧めていろはを教えてくれた人や、機材を貸してくれている人たちへの義理というのもある。いい写真を撮ればそういう人たちに報いることができるかもしれないという気持ちもある。だから、とりあえずもうしばらく撮ってみようと思う。

 デジタルに手を出そうかなあ、なんて安易な考えもある。でも、飽きかけているかもしれないものに、数十万は出せない。とはいえ、自分で焼けない(焼けるけどめんどくさい)カラーフィルムで撮る意味が僕にはわからないので、今後はモノクロだけやっていくと思う。

 前置きが長くなった。以下、写真。顔がハッキリ写っちゃってるのもあるけど、地球の裏側に住んでる人たちだしいいよね。というか観光客が半分くらいだろうし(本当は日本で撮った写真もあげようと思ってたけど、やっぱ日本のスナップで顔がハッキリ写ってるものをネットに上げるのは抵抗がある)。ということで、どうぞ。f:id:beethoven32111:20181231193227j:plain

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 来年は、日本でこれらを超える写真が撮れるように頑張ろうと思います。いやでも、ロケーション選びも写真のウデのうちだから、べつに身の回りでいい写真が撮れなきゃダメってことはない。ただ、現実としてヨーロッパにもういちど撮りに行くのはいろいろとハードルが高い。だから、撮れるところでやるしかない。まあ、頑張ります。だめならやめればいいしね。

そんなに笑顔がみたいのならば、まず自分が人を笑顔にする努力をすれば?

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 現代ほど、笑顔、笑顔とうるさい時代もないんじゃないだろうか。

 アルバイトの求人を見ると、決まり文句のごとく「明るく元気な人」「笑顔で接客できる人」という条件が書かれている。そんな文言をみるたびに、ああ自分はお呼びではないのだ、と思って応募する気が失せていたものだ。なぜなら僕は明るくもなければ元気でもないし、笑顔で接客もできないから。

 それで思うのだが、なぜこんなにも笑顔が求められるのだろうか。

 レビューサイトなどで、店員が無愛想だったとかで低いレビューをつけている人をみかけることがある。これも、自分は笑顔で接客してほしかったのに(要求)、実際はそうならなかったと言いたいのだと思う(「失礼」ではなく「無愛想」だし)。

 でも、僕は店員に対して笑顔は求めていない。求めているのは、たとえばコンビニ店員であれば、僕がレジまで持っていった商品の会計をしてくれることだけ、レストランなら、(あるていど)おいしいご飯を提供してくれることだけ、である。

 もちろん、プラスアルファで接客が良い店だったら、また行こうと思うことはあるけれど、ちょっと接客が無愛想だったからといって気を悪くしたりはしないし、レビューサイトで批判したりもしない。まあ、知人を連れていく店としては敬遠するけど。

 それから、恋人に対して、「ずっとそばで笑っていてほしい」とかいう殺し文句もある。実際にこんなことを言う人がいるかどうかはともかく、これも恋人に笑顔を要求しているわけだ(「笑顔」というのは「幸福」の象徴として使われているに過ぎないのだろうが)。

 だが僕の場合は、恋人に対しても「笑っていてほしい」とは思わない。もちろん笑顔はかわいいけれど、それ以外にも、なにかに集中しているときの真剣な表情や、恥ずかしそうに照れている表情とか、手持ち無沙汰で退屈そうにぼんやりしている表情なんかも、なんだったら気が抜けてすこしぶさいくに見える表情だって好きだから、むしろずっとニコニコ笑顔でいられたらつまらないと思ってしまうだろう。

 それに、僕はさっきから、笑顔を「要求」するという言い回しを使っているけれど、これは意図的だ。相手が店員であろうと恋人であろうと、笑顔で接客して「ほしい」とか、笑顔をみせて「ほしい」とかいう以上、それは要求以外のなにものでもない。それは、「そのお菓子、ひとくちちょうだい」というのと同じことだ。

 しかし、人から何かを要求するときは、こちらも何かを与えるのが筋というものである。いわゆるギブアンドテイクというものだ。たとえば、「そのお菓子、ひとくちちょうだい。僕が食べているお菓子をひとくちあげるから」というように。もちろん、一方的にもらうだけの場合もあるけれど、そういうときも、実際は何らかのかたちで返礼をしていることがほとんどである。

 だから、本来、だれかに笑顔を「要求」するのであれば、相手が自分の笑顔を与えても良いと思うような何かをこちらから提供しなければならないはずである。だから僕は、笑顔でいて「ほしい」などと恋人に言ったりはしないし、また言うまいと決めている。

 そもそもなぜ笑顔を「要求」する人がいるのかといえば、それは笑顔をみると気持ちが良いからである。つまり、結局のところ、見ず知らずの店員に対して、もともと約束されているサービス(レジ会計や食事の提供)だけでなく、笑顔で接客することを求めている人というのは、自分が気持ちよくなりたいという欲望を相手に押し付けているのである。だが、そんな一方的に押し付けられる欲望をかなえてやる必要など、その人にはない。

 だれかの笑顔をみたいのであれば、自分が笑顔にして「あげる」のが道理だというのが僕の考えである。そのだれかが恋人の場合、たとえば、あたらしい髪型をほめてあげるとか、ほしいといっていたアクセサリーをプレゼントしてあげるとか、くだらない冗談で笑わせてあげるとか、たのしいと思えるような経験ができるようにはからってあげるとか、そういうことだ。

 そこまで努力をした果てにみることができた恋人の笑顔には、決してなにものにも代えられない価値がある。輝きがある。一方的に「要求」するだけで、まるで収奪するかのように手に入れた笑顔には、はたしていかほどの価値があるだろう。すくなくとも、僕はそんなものをほしいとは思わない。自分はなにもしていないくせに相手からなにかをもらって気持ちよくなろうだなんて、それはただの傲慢というものだ。

子どもに与えられる最良のものは「思い出」

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 子どものころの思い出というのは、子どものころにしか作れない。当たり前だけど。

 でも、これはすごく重要なことだ。なぜなら子ども時代というのは驚くほどあっという間に過ぎるから。何歳まで子どもとするかという問題はあるが、一般的な感覚から言って「子どものころの思い出」といえば、まあせいぜい小学校卒業までくらいになるんじゃなかろうか。そして物心ついてからじゃないと思いではないから、だいたい6歳~12歳といったところだろうか。実に短い。

 ほかに子どもに与えられるものといえば、たとえばお金や物になる。お金はもちろん大事だ。お小遣いとかそういう手渡しのものだけでなく、学費など子どものために使うお金も含めて。でも、有り余るほどのお金を与えられれば子どもは幸せかといえば、そんなことはない。子どもにとってお金の使いみちなんてたかが知れている。そして、必要なお金の量もまた然り。

 そして、これは物もそうだが、お金なんてものは大人になってから頑張れば自分でいくらでも稼げるのである。いやまあ、いくらでもとはいかないが、嫌でも稼がなくちゃいけない。お金を稼げば当然、物だって買える。

 だが、いくらお金を積み重ねたところで、子どものころの思い出・経験は絶対に買えやしないのだ。

 有名人のインタビューなんかで、「○○(職業)になろうと思ったきっかけ」をきかれて、「子どものころにその職業の人が働いているのを見てかっこいいと思ったから」という答えをよく見かける。それを見るたびに考える。もしこの人が、その経験をしなかったらいったいどうなっていたのだろう、と。

 たとえば野球場で活躍する選手を見て野球を始めるとか、そういうのはけっこうありふれている。だがこうした経験は決して子どもひとりでできるものではない。親が野球場に連れて行ってあげて初めて成り立つのである。だから、できるだけいろいろな場所に連れて行ってあげて、いろいろな人やものを見る経験をさせてあげることは将来のためにもなるのだ。

 もちろん職業選択においてだけじゃなくて、子どものころの思い出というのは、単純に生きていく上での大きな財産になる。大人になるにつれて、なんの屈託もなく物事をめいっぱい楽しむということは難しくなっていく。変にすれてしまっていくということもあれば、両手に余る悩みを抱えているせいでなにかに夢中になれないということもある。それに比べて、子どものころの思い出の、なんと純粋に光り輝いていることか。

 といいつつ、僕自身にはあまり子どものころの大切な思い出というものはない。子どものころを思い出して浮かび上がってくるのは、あれが嫌だったこれが嫌だったということばかりだ。まあこれは自分の性格のせいもあるから、べつに親に恨み言をいいたいわけではない。

 そして僕は親になるつもりはない、というか絶対にならないと決めているので、いつか子どもができたらいっぱい楽しい思い出を作ってあげようとかそういうハートウォーミングな話でもない。

 ただ、仕事(アルバイト)柄、親子連れの客をよく見ていてふと思ったのだ。こうして親に連れられてここにやってきたことが、やがて思い出になって、ふとしたときに思い返したりしてくれるのだろうか、と。もしそうだとすれば、自分のやっていることも少しは価値があるかな、なんて。柄にもなく。

「孤独を癒やしてくれるのは他人だけ」

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 いつものようにインターネットを徘徊していると、「孤独を癒やしてくれるのは他人だけ」という、とても素敵な言葉に出会った。

 一見すると人とのふれあいを大切にするハートウォーミングな言葉に思えるが、ここでいう「他人」とは「自分以外の人」という意味ではない。「自分以外の人」のうち、家族・友人・恋人などの特に親しい人、いわゆる「身内」を除いた、本当に見ず知らずの人を「他人」といっているのである。

 そうすると、この「孤独を癒してくれるのは他人だけ」という言葉は一挙に不可解なものとなる。どうして、見ず知らずの「真っ赤な」他人に、孤独を癒してもらうことができるのか、そう思う人が大半だろう。

 しかし、僕はなぜかこの言葉に強く共感を覚えた。

 ちなみに、この言葉は Yahoo!知恵袋で見かけた、「彼女がいるのに寂しいと感じるのはなぜなのか」という趣旨の質問に対する回答のなかで使われていた。いわく、「孤独を癒してくれるのは他人だけ」で、「あなたにとって彼女はもう『他人』ではなく『身内』になったということではないか」ということであった。

 僕は、この論理的には矛盾しているようにも思える回答に、とても納得した。「身内」と呼べるような他者がいるのにもかかわらず、なぜ「孤独」を感じるのか、という疑問を抱く人もいるだろう。だが、僕は自分の経験的にこの回答がいわんとしていることを理解することができた。

 僕も、両親は健在だし、少ないが友人もいて、恋人もいる。にもかかわらず、やり場のない孤独感を抱えてふさぎこむときがある。そんなとき、その孤独を打ち破ってくれたのは意外と、顔も名前も知らない「他人」だったりした。

 たとえば、自室に一人でこもっている寂しさに耐えかねて外出した先で、ふらっと入った店の店主や従業員と思いがけなく意気投合して話に花が咲いたあと、ふと気がつくと、さっきまでとは打って変わって、気持ちがすかっと晴れ渡っていたというようなことが何度かある。お互いに、名前も告げずに別れて、きっと二度と会うこともないだろうにもかかわらず。

 こういう不思議な体験があったからこそ、「孤独を癒してくれるのは他人だけ」という言葉にも妙にすんなりと得心がいったのだろう。もちろん、「他人だけ」というのは誇張した言い方になるが、「他人」にしか癒すことのできない種類の孤独があるというのは確かだと思う。

 むしろ、無駄にだらだらと時間だけ積み重ねてけっきょく実りの少なかった人間関係よりも、長い人生からすればすれ違いざまに会釈を交わしに過ぎないような、ほんのひとときの交流のほうが、やけに印象に残って忘れられなかったりする。

 思うに、そのような交流が私たちにかすかな希望を感じさせるのは、それが可能性をほのめかしているからではないだろうか。つまり、この世界にはまだまだ私の知らない世界や人が存在して、勇気を出して手を伸ばしさえすれば、いつでもそうした新たな世界と触れ合うことができるのだということを、思い出させてくれるのだ。

 だから僕は、どんなに一瞬の付き合いであっても、決して軽んじたりはしない。

何もせずに寝続けるのも幸せのひとつのかたちなのだろう

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 最近ひまなので寝てばかりいる。

 いま僕は大学3回生で、現時点で取得することのできる単位はすべて取り終えてしまった。なので学校には週に2回しか行かない。そして授業は1日1コマだけである。アルバイトもだいたい週2程度しかいまは入れていないので、週のうち3日は丸一日なにもないというような状態である。

 秋晴れが続いているので写真を撮りにいくのも良いのだが、ここのところどうにも体調がすぐれないので、どうしても家でおとなしくしていざるを得なかった。で、家でできることといったら読書か映画鑑賞くらいのものだが、これらもいまひとつやる気が起きない。

 そういうわけでずっと寝ている。ずっと寝ていると言っても、もちろん一日じゅう睡眠状態にあるわけではなくて、ベッドでゴロゴロしながらネットをしたり音楽を聞いたりして時間を潰しているのである。

 べつにそれでも一向に構わないわけだが、あまりにもダラダラ過ごしているとなんとなく罪悪感が湧いてくるのである。

 もっと有意義な時間の使い方をしなければならないのではないか。

 この時間を有効活用してスキルアップしなければならないのではないか。

 人生の夏休みと言われている大学生活をこんなふうに過ごしていいのか。

 もっと外にでて目一杯楽しいことをしたりするべきではないのか。

 などとその思いはさまざまだが、いずれにせよ、せっかく有り余っている時間をゴロゴロして潰してしまうのは良くないことだと考えている。

 しかしよく考えてみると、それらの考えはほんとうに自分の心の底から湧き上がってきているものではない気がする。どちらかといえば、世間的にそうであるべきとされている考え方をなぞっているだけなのではないか。

 余った時間はなにか「有意義」で「有効」なことに使わなければならない。そして絶えず成長しなければならない。いつもはしゃいで楽しんでいなければならない。ついついそんなふうに考えてしまう。

 もちろん、それもひとつの時間の使い方ではあるし、いつもそんなふうにやれるならそれに越したことはないかもしれない。だが、とくに僕のように音が怠け者で生まれつき向上心が欠落している人間には、常にそうした態度を貫くのは難しい。

 そのうちやる気も出てくるだろうし、やらなければならないこと、やる価値のあることもやってくるだろう。だからいまは体力を養っているのだ、とかそれくらいに考えておいて、とにかく時間のある限り寝続けるということも、立派な過ごし方なんではないだろうか。少なくとも僕はそう考えて今日も明日も布団にこもる。

理解されることを諦めて音楽を聞きながら孤独に沈む

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 家族も、友人も、恋人もいるのに、孤独でたまらない。

 こんなことを言うと村上春樹の小説の主人公にでもなろうとしているのかと思われそうだ。村上アンチの人は、彼の小説の主人公は女には困っていないくせにいっちょ前に孤独ぶるのが鼻につくと批判したりする。

 しかし、そういう人は本当にそれがおかしなことだと思っているのだろうか。友人や恋人さえいれば人は孤独ではなくなると信じているのだろうか。あるいは、実際に自分は友人や恋人がいるから決して孤独ではないと断言できるのだろうか。だとすれば非常にうらやましいなと思う。

 僕の場合はむしろ、孤独から逃れようとして人と交わろうとすると、大抵の場合は、かえって自分が孤独であることを再認識し、かつそこから抜け出すことが絶望的であることを思い知って、落胆してしまう。

 どうしても他人に理解してもらいたい感情というのは、見方を変えれば、どうあれ他人には理解してもらえない感情だ。なぜなら、すんなり他人に理解してもらえるような感情でいちいち思い悩んだりはしないからだ。やすやすとは理解してもらえないからこそ、それが静かに自分の心の底に沈殿していって、次第に無視できなくなってくるのだ。

 そして、この人ならひょっとしたら理解してもらえるかもしれないと勇気を出して打ち明けて、なんだか煮え切らないような困惑したような反応が帰ってきたときほど、深い孤独感に襲われるときはない。そんな経験を重ねるうちに、やがて自分の中の複雑な感情を他人に吐露して理解してもらおうしなくなる。

 とはいえ、それで問題が解決するわけではもちろんなく、自分ひとりで抱えて生きていくには苦しい感情がいっさい処理されることなくずんずんと積もっていくことになる。最近ことさらその堆積を意識するようになってきた。

 かつてあれほど熱心に語り合った友人と久しぶりに会って言葉を交わしても、なんだか薄っぺらい上辺の話だけでから騒ぎして、とぼとぼと家路をたどる背中がとても寒い。別々の道を歩んできた時間が長くなればなるほど、お互いのことを理解しにくくなっていくのだ。

 そろそろ僕は、他人に理解を求めるのを諦めなければならない時期に入ってきたのだろうか。それとも、もっと他人に理解してもらえるように、自己を客観的に分析し、それを明快な言葉で表現する技術を磨かなければならないということだろうか。

 きっと後者なのだろうし、それをがむしゃらにやっていけば、ひょっとするとなにかを成し遂げることにもつながっていくのかもしれない。しかし、いまの僕にはそれができそうもない。ただいろんなことを諦めて、唯一僕の心に染み渡り癒やしてくれる音楽を聞きながら、孤独のより深い底の方へとゆっくり沈み落ちていくばかりだ。